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2011年05月23日

いきさつ

※文化通信((財)中條文化振興財団季刊誌)への原稿を脱稿しました。
編集長(事務局長)の許しを得て、記録を兼ねて(PCがいつクラッシュするかわからない)ブログにも掲載しました。
※文化通信の掲載内容とは文字数の関係等で若干変わっています。(文化通信のほうが、小見出しがついたり、自体を変えていて読みやすいです)

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「血屋敷井戸義捐金茶会開催へのいきさつ」

「血屋敷井戸」、三越前というバス停に立ち真後ろを振り返るとそこへの鉄格子の扉はあります。
2008年の暮、この井戸についてユニークな仮説を立てて活動している築港万次郎さんという方と出会ったことから、私の血屋敷井戸とのご縁が始まりました。

「高松はネタの宝庫である」という共通テーマで盛り上がり、氏が執筆中の「源内・コード」という小説のあらすじを聞き興味を抱きました。小説の内容についてはネットで公開されていますので割愛しますが、物語の最初の舞台は高松市美術館。件の血屋敷井戸が壊されたことからいろいろな事件が起こるという設定です。

実際に井戸は、丸亀町駐車場の着工前の埋蔵文化財発掘調査で2005年に発見され、その後石組みがばらされて市内の石材会社で保管されているとのこと。後に復元される予定だったのかどうかは知らないのですが、私が案内された2008年の暮には、井戸のあった場所はアスファルトが敷かれたバイク置き場になっていました。そこに立つと何となく気分が沈んだことを覚えています。

井戸を形作っていた石組のうち、北西角のハート形似の石には、高松城を築城した大名である生駒親正候の家紋である 波切車を逆さにした形と、黒田候の家紋であるクルスに○が合い向かい合う形で刻まれていることを教えていただきました。

築港万さんの説によると、
「生駒候は黒田官兵衛(孝高・シメオン)に高松城築城に対して全幅の信頼を置いていたのみならず、次に天下を取るのは彼をおいてほかにはないと信じ、さまざまな協力をしていた。クルスに○という家紋からも明らかなように黒田官兵衛は、高山右近や小西行長と並ぶキリシタン大名であり、彼の設計した高松城にもその信仰の影響が色濃くでている。

血屋敷井戸の真ん中からその石に向かえば、それは玉藻城(高松城)の天主閣を仰ぐ方角となる。井戸は高松のまちを災いから守るために、風水の教えも取り入れて作られ、礼拝をするため、重大で機密な会議や茶会のために大切に使われていた。井戸の大きさは縦6、横4という大きさに対して深さが1.5(m)という、一般的な井戸の形態とかけ離れたサイズである。世界を見渡せば、このサイズがキリスト教やユダヤ教で使われる古代の洗礼槽と似ていることに気付く。

この井戸に「血屋敷」というおどろおどろしい名前をつけたのは、後の世に出てきた平賀源内である。すでに松平藩時代には馬場となっていた城内の地図の同じ場所に「血屋敷井戸趾」と彼が書き込んだ理由は、恐ろしい名前をつけておけば、人々が畏れてこの大切な遺跡を壊さないだろうと考えた。もう一つは、血屋敷の血は「王家の血筋」の血、井戸は「碗」、つまり聖なる器=「聖杯」を表す源内の暗号であり、聖杯で表されるマクダラのマリアの棺は高松市美術館の下にある。それを謎ときや謎かけの天才だった源内が気づいて、書き込んだ。」

私は、あまりにも飛躍しているとはいえ、奇想天外なこの説に「面白い!!」と大いに興奮して、少しの間、角川書店に小説を売り込むという作業を手伝いました。が3億円を集めて映画化して高松を世界の聖地にするという目標に、急に我に返って逃げ腰になり、2009年の年明けに、「もうこれ以上は協力できません」と、高松市美術館のナガレバチの彫刻の前で「暇乞い」をしました。築港万さんの悲しい笑顔を置きざりに美術館を出た翌日、雨の片原町商店街を自転車で走っているときに、交差点でブレーキを誤り転倒して胸を強打。その後1か月くらい息をするたびに胸が痛いという症状を聞いた友人から「それ間違いなく肋骨骨折してたと思うよ」と言われました。「バチ」があたったのかもしれません。

玉藻城、栗林公園、城下町の街並み、野原の庄といわれていたこの湿地帯を開拓し、西島八兵衛という治水の天才技術者を呼んで郷東川をかけかえ、高松というまちの土台を作った生駒候。生駒家が秋田県に移封されたのちに高松藩主となり、この土台を大切に、さらに磨きをかけ発展させた松平候。

この素晴らしい高松のまちのおこりを知れば知るほど、まだあまり光が当たっていないと感じる生駒候の功績を、せめて高松の人たちが知り称えることがとても大切なのではないか、という思いが強くなっていた2011年の年明けに、久しぶりに築港万さんに電話をかけました。

「一昨年には失礼なことを申してすみませんでした。(中略)相変わらず等身大のことしかできませんが、今、なにか手伝えることがあればおっしゃってください」。時はちょうど長きにわたる築港万さんの渾身の活動もあり、バラバラにされていた血屋敷井戸の石がもとどおりに復元されている最中でした。そして「3月13日に復元が完了するので、それを記念するお茶会をしてほしい」と要請を受けました。

一旦お返事したものの、普段使いの道具しか持っていない私が400年以上ぶりにあの場所で茶会をすることを考えれば考えるほど恐ろしくなりました。悩んでいたときに、敬愛するゴッドマザー中條比紗美さんから別件でお電話をいただき、「実は、こんな大変なことを頼まれました。バチが当たるのが怖くて断ることもできずにいます」と打ち明けたところ、「井戸は大切だからやりましょう。」と即座に言っていただき、「もしかしたらおじいさんがあの井戸でお茶会をしていたかもしれない大内さん(三友堂オーナー)にご相談しましょう」と提案されました。その大内さんの全面協力をいただき、当日は大内家に代々伝わるお道具を使い、紋付き袴姿で供茶と点前をしてくださりました。井戸や水や文化・遺構の縁の方にもご出席いただいて、血屋敷井戸復元記念茶会は無事終わりました。

その茶会の2日前に起こった未曾有の東日本の大地震の報道で、南三陸町長さんが、被災時の様子を生々しく話された後、「何か全国のみなさんにおっしゃりたいことは?」と聞かれ、「とにかく、水と食料を・・・」と言いかけて、それまでは気丈にお話していたのに、言葉が詰まって後が続かなくなってしまった映像を見て涙が込み上げました。そして、自分にいったいなにができるんだろうと、考え始めました。

記念茶会の水屋見舞でいただいた15000円を義捐金にしようと思いましたが、もうちょっと考えて、せっかくなら、東北の人たちを助けたいと思っているほかの高松市民とも気持ちをわかちあえる方法をと、15000円を原資にした「義捐金茶会」を思いつきました。

お茶というのは、不思議な役割があって、人を「お茶が飲めるなら行こうかな」と動かす原動力にもなるし、人と人をつなげる触媒にもなる、疲れた人を慰める一塊の暖にもなります。どうか、「お茶」が被災した人が、明日からちょっとでも笑っていられ、日本中のみんなが応援していることを知り勇気を持ってもらえる媒体になりますようにと、20日の実施を決めました。周辺の仲のいい人たちにメールをしたところ、るいままをはじめとした善意の方々に協力いただき、多くの来場者に恵まれて茶会は開催され、15,000円は170,000円超に膨らみ、翌日日本赤十字社にすべてを寄付することができました。

今、あの井戸は、とても気持ちのいい場所に変わっています。座っているだけで、地面から「気」のようなものがまっすぐに天に向かってすうっと昇っていくような。先日、下見を兼ねて井戸にご案内したある銀行の支店長さんが「ここに来る前は実は頭痛がしていたのに、入ってしばらくしたら治りました」と言われました。

今後、血屋敷井戸が、きっとどこかで見守っておられる生駒候の御霊が喜ぶこと、すなわち「人が集い楽しむ」「疲れた人を癒す」「他を愛する」「自分のいまあることを感謝する」、そして生駒候のことを知り思い出す、高松市民に愛される場所になることを願ってやみません。

皆様方の血屋敷井戸へのお心寄せ、今後のご活用をどうかお願い申し上げます。




Posted by マロンアルファー at 16:10│Comments(0)
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