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2012年07月04日

第2回 豊島農民福音学校レクチャーのごあんない

★豊島には全国から志の高い人があつまる学校がありました★

1回限定で5月に実施した豊島農民福音学校レクチャーを、好評につき、第二回目を開催することになりました。


今から70年以上前に東京農業大学から一足飛びに豊島の唐櫃の山に妻子と移り住み、豊島農民福音学校を開校した藤崎盛一(賀川豊彦の弟子)は、立体農業という、平地部だけを取り合う農業法ではなく、山地(立体地)を有効に素敵に活用することによって、バラエティに富んだ農作物や家畜を飼い、それをもとに、ケーキやパンを焼いたり、ジャムを作ったり、ハムを燻製したりする生活法のほか、哲学、学問、信仰などを学びながら、人生を豊かにする方法を説きました。

農業や生活からでた廃棄物もほぼ完全に大地に返し、次の実りの栄養とする等、完全なる持続可能な循環型農法だったそうです。

そこには全国各地から学生が集まり、寄宿舎で寝起きをともにし、学び、また故郷に帰っていったそうです。

この学校は1982年まで続きましたが、時代は、現代のような「循環型社会」という言葉はなく、むしろ、大型工場で作ったものを安く買い、捨て続ける、という価値観が蔓延していた時代の波に押されたこともあったのでしょう、閉校しました。

藤崎先生の息子さんが現在豊島の唐櫃自治会長をされていますが、前回のお人柄そのままの朴訥なレクチャーにリクエストがありましたので、お願いして2回目の開催となりました。

ご興味のある方は、ご参加ください。



***農民福音学校レクチャー****
日時:2012年7月28日(土)
   10時、豊島家浦港交流会館集合
   10時半〜12時半 レクチャー
   12時半〜14時 ランチ(実際に農民福音学校で作られていた献立の再現)
           あげそば、ロックケーキ、パン、果樹ジュースなど
   14時〜14時半 農民福音学校跡見学
   15時     解散(家浦港)
    豊島美術館や檀山などへこの後いらっしゃる方は、アクセス方法等ご相談に乗ります。

講師 藤崎盛清さん(唐櫃自治会長)
参加費 4000円(受講料、昼食代、送迎費込)
定員:10名(現在申し込み、9名)
主催:豊島農民福音学校Cafe
申込み先:栗生  090−4336−3104

※ 前回は、授業料1000円、ランチ代1000円と送迎代500円の合計2500円にしていましたが、実際にやってみると、レクチャーのために盛清さん(講師)はものすごい時間をかけて資料を調べ、原稿を作り、準備した刷り物や伸ばした写真だけを考えても経費がでなかったと思われること(ご本人は何もおっしゃらないのですが容易に推測できた)と、4姉妹総出での盛りだくさんのランチも少し値上げしたいと思い上記の参加費にいたしました。ご理解いただければ幸いです。

なお、福音学校跡まで別の方法でアクセスされる方は500円引きとなります。

写真は農民福音学校夏期合宿(女子)のときの一場面



こちらは、一回目に参加された方(文殊さん)の参加感想文です。

**************************以下感想文***********

 昨日5/12(土)、シャンタン、ブミカと3人で豊島に渡り、アーキペラゴの主催で行われた「農民福音学校」の足跡を辿るゼミに参加してきました。ぼくとブミカは、これが5度目の豊島訪問、シャンタンは初めての豊島体験でした……

 豊島の集落は、大きく分けると壇山という山を囲んでちょうど三ツ星のように3カ所に分散しています……せんだってあけみちゃんのワークが行われたのは西南の集落である甲生(こう)、今回のゼミは、北東の集落である唐櫃(からと)で行われました……この唐櫃には、あのすばらしい超近代的な豊島美術館があります。

 http://www.benesse-artsite.jp/teshima-artmuseum/

 ゼミが行われたのは、かつてこの地で「農民福音学校」が展開されていたその跡地ですが、唐櫃の高台にあって、眼下に、豊島美術館や唐櫃の港を見下ろすことができます。実に風光明媚なところです。今は、「農民福音学校」を運営されていた藤崎さんのご子息のご家族が住んでらっしゃる家屋の一室でゼミは行われました。

 「農民福音学校」の歴史を語ってくださったのは、設立者の藤崎盛一さんのご子息の方……訥々とした語り口のなかから、とてもとても大切な歴史が語られてゆきます……ここにもまたひとつ残しておきたい大切な豊島の語り部の語りがありました……。

 豊島に「農民福音学校」が設立されたのは、戦後間もなくの 1947年(昭和22)、全盛期には共同生活を行う研修生が50名を超える時代もあったとか……残念ながら1957年(昭和32年に納豆を醗酵させる小屋から出火して施設が全焼し、規模縮小を余儀なくされます。1982年(昭和57)の閉校まで、実に多くの人々が、この地で、キリスト教の愛の実践のスピリットを土台とする斬新な立体農業の実践学習のメッカとして機能を果たしていたのです。

 賀川豊彦氏の提唱による『農民福音学校』がスタートしたのは、1927年(昭和2)神戸の西宮でした。賀川豊彦氏の自宅6畳で、9名の参加者による旗揚げだったようです。続いて1933年(昭和8)東京に「武蔵野農民福音学校」が設立……時代は暗黒の時代へと向かって風雲急を告げるなか、時代の流れに拮抗しようとする必死のこころみのひとつでもあったようです……

 藤崎盛一氏が、豊島に導かれてきたのは、「豊島農民福音学校」が開かれるより前の昭和16年のこと……それまで島には存在しなかった乳牛を連れての来島だったようです。常識とは違いもっとも高いところで牛を飼い、その糞は肥料として再利用、尿はサイフォン式の噴霧器で下にある農園に自動的に撒かれる仕組みだったそうです。ミルクからはバターやチーズを、豚からはソーセージやベーコンを作り、ヒツジからは羊毛を採ってセーターを編む、ヤギもまた乳を搾るために飼われていたようです。

 また植樹に関してもクルミや果実など実のなる樹木を植林、、、、畑でとれたトマトはピューレをつくり、またパンやケーキなども焼くというスタイル。

 これらは商品として外部に売られるためのものではなく、あくまでも共同体の自給自足を目指してのもの……余剰産物は外部に売られることがあったけれど、主目的ではなかったようです。

 近代農法が単一作物の大量生産を主軸とする欧米をモデルにしているのに対し、こうした多角的な循環農法は、立体農業と呼ばれ、そのモデルはデンマークの国家再生プロジェクトにありました。立体農法はそれとは真逆の発想に基づくすぐれてエコロジカルであり、循環型であり、地産地消型であり、適性規模のコミューン指向と、今、模索されつつある農業のまさに先取りだったと言えるほどの水準を保っていました。

 この離島で4週間にわたる長期ワークショップが行われ、全盛時には50人を超える参加者が集っていたということの驚き……
 http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20101010/1287537387

 最近、テレビなどでも取り上げられ話題になっている「伊賀の里、もくもく手作りファーム」は、商業的なスタンスですが、立体農法が目指していたものの一部を反映しているように思われます。

 伊賀の里、もくもく手作りファーム
 http://www.moku-moku.com/
 
 
 藤崎さんの語りが一段落すると、庭に用意してあったビッフェ形式のお昼の時間……ここではかつて賑わっていたころの農民福音学校でのメニューが再現され、みんな舌鼓を打っていました……。これらのメニューは、当時の学校の食事メニューで育った4姉妹の思い出に従って再現されたのです。

 そしてその4姉妹をみると、なんと、あけみちゃんのワークのとき、片山邸の厨房をのシェフをやってくださった植松ルツ子さんの姿が、、、、ルツ子さんは四姉妹の末っ子……そうだったのか! あの豊島ワークのこころのこもった食事は、農民福音学校の精神を汲むものだったんですね。そしてあの美味しい美味しいイチゴを作ってらっしゃるのは講師の盛清さんの息子さんだったのです……

 藤崎さんの子供さんたちは、それぞれに「農民福音学校」の歴史を身をもって知る生き証人の方々なのです……久しぶりに四人姉妹そろって、昔の思い出話に花が咲いたとおっしゃっていたみなさん、ランチタイムのシェアリングのときには、涙ぐんでらっしゃり、もっともっと話たいことがあるとおっしゃっていました、、、、

 ぼくたちはこうしたみなさんの語りを聴き取るために、また近いうちに豊島に渡るつもりです……昨日、 片山邸に宿泊していたスタッフ3名(あけみちゃん、ぶみか、もんじゅ)に朝食を出していただいた植松さん(実は藤崎さんの四女)に、あけみちゃんの「戻っておいで私の元気」を手渡したところです……
  


Posted by マロンアルファー at 20:14Comments(1)豊島

2012年05月08日

豊島ゼミ(皐月)のご案内 

4月のゼミは、当日、強風のため高松港から家浦までの船が停船になり、参加者の皆さんに砂川さんを紹介することができませんでした。

砂川さんに電話で島に渡れない旨を伝えると、「残念やなあ。みなさんを泣かしてやろうかと思とったのに」と言われ本当に残念な気持ちになりましたが、せっかく心ある人に集まっていただいたのに勿体ないと考え、急きょ予定を変更して、前日から豊島に渡れず結果的に高松でいてくれた石井とおるさんによる、豊島事件とそれに関連した話を、大日本社員食堂で聴き倒すというセミナーを、細川学氏の愛情たっぷりの昼食をはさんで実施しました。

お昼ご飯を食べて解散の予定が、14時になってもだれも帰ろうとせず、結局14時半すが解散。5時間にわたる濃いセミナーとなりました。


では、今月のご案内です。

今月は料理人の細川学氏が愛息子の運動会で渡島できないため、彼の息のかかった料理人のサポートで昼食実現となりそうです。
眩しいほどの新緑のなかのゼミに是非お越しください。

今回は高松在住の大小企業の経営者の方もご参加くださる予定で、いろんな化学反応が起こることを楽しみにしています。

このところ、岡山、千葉、金沢、東京など県外からの意識の高い参加者が増え、とても喜んでいます。

しかし、離島で見えにくいとはいえ、同じ香川県のなかで、頼るべき県庁や県警や県議会に一切味方になってもらえず、結果として35年間にわたる孤独な戦いを強いられた住民が、大阪の中坊弁護士や兵庫県警の国松本部長など県外の人の強力なサポートを得て、次第に全国・世界の人々の共感を味方につけ、絶望的といわれた行政相手の闘いに勝利したということ、それが何を意味するのかを、まずは、香川県の人に、一度でかまわないので、運動の当事者から直接話を聞いてもらいたいと、切にねがって毎月企画しています。

テレビや新聞で知っているつもりの情報が、ショックとともにがらっと変わると思います。
豊島事件とはいったい、何だったのか、福島の事故と重ねると何に気づくのか。

みなさんのハートを揺さぶりながら、渾身の力を振り絞って話してくださる砂川さん(84歳)がお元気なうちに、どうか、一度ご参加してください。お願いします。


日 時:2012年5月27日(日) 午前10時 家浦桟橋付近集合(家浦へはそれぞれのご都合のよい方法でお越しください)

日 程:10時〜12時 砂川三男廃棄物豊島住民会議元議長のガイドによって、現場視察と豊島事件のおはなし
    12時〜13時  昼食 住民運動に共感してはや5年目の炎の料理人細川学スピリットの料理を食べながら座談会
    13時すぎ〜15時  石井とおる(豊島出身元県議)による「豊島の水と歴史をたどるゼミ」。檀山頂上に登り、太古の日本列島、縄文海進、豊島の形成などから、豊島の水を主役に悠久の歴史をたどり、今度は現在から未来の豊島に思いを馳せていただきます。
    15時すぎ  家浦港にて解散
            この後、豊島に残る方の滞在プラン考えます。

※ 高松豊島のアクセスはこちらをご参考にどうぞ。

参加費:3500円(視察費用2000円、昼食代1000円、午後ゼミ授業料500円)

連絡先:電話090-4336-3104 メール sinrincafe@gmail.com(栗生)


申込締切:食材と資料の都合により、5月26日(土)正午

参考ウェブ:こちら(←料金設定に午後ゼミの500円が反映されていないので、ゼミ内容のみご参考にしてください。


  


Posted by マロンアルファー at 11:58Comments(1)豊島

2012年04月04日

豊島ゼミ(4月ゼミ)のご案内

毎月、砂川さんに時間を作っていただいて実施している豊島ゼミ。先月末に体調を崩されて心配しましたが、すっかりお元気になられたので、今月も4月22日(日)に、実施します。


今月は、ほぼ半年ぶりに、石井とおるさんが午後からのゼミ(檀山頂上に登り、太古の日本列島、縄文海進、豊島の形成などから、豊島の水を主役に悠久の歴史をたどり、今度は現在から未来の豊島に思いを馳せる時間)の講師に復活してくれることになりました。



 参加費は3500円です。
      ※現地徴収いたします。
      ※内訳2000円はバス・資料ガイド代として住民会議へ、1000円は昼食代、500円は午後からのゼミ授業料です。
      ※昼食時にお茶かお水は用意しますが、飲みもののお持込も可能です。
        (飲用後のペットボトルなどは自身でお持ち帰りください)
      ※ワイン、コーヒー、お抹茶はbar de HITAKI泉屋で有料で承ることもできます。

日程はこちらです。

集合10時00分 豊島家浦港桟橋付近
   ~12時   砂川ゼミ(不法投棄現場「心の資料館』中心
   12時半~13時半 昼食(豊島片山邸にて) 砂川さん、石井さんを交えて
   14時  ~15時半  石井ゼミ (檀山、すだじいの森、唐櫃清水など、水をたどる)
   15時半~16時半 自由時間
           (甲生地区の散歩、お昼寝、読書、茶室でお茶、瞑想 etc)
     ★片山邸から歩いていけるスポット
       1 首なし地蔵(2体のお地蔵さんのとなりには、願がかなった首が山積みです)
       2 三対神社(北斗七星がご神体の妙見信仰の神社)
       3 あちこちの道端に点在する戎さんの祠(豊島の祠だけはある特殊な形をしています)
       4 両墓制の埋め墓の名残の墓地と隠れキリシタンの墓群
       5 塩田千春さんのアートワーク「遠い記憶」(←開催日要確認)

     ★片山邸から自転車(またはちょっと長めに歩いて)いけるスポット
       1 平安時代の観音様がいらっしゃる観音院(家浦岡南部)
       2 閻魔さまとその家来たちと囚人像(同)
※管理人のしげさんが体調を壊されて入院中なので、外からのみ見られます。
     
                     
  17時すぎ家浦港にて解散
     ※ お急ぎの方は、午後からのゼミを省くことも可能です。その場合は参加費は、3000円となります。
     ※高松・豊島、岡山・豊島、小豆島・豊島の船便の詳細は、高松在住豊島出身のSEであるペンペンさん(毎週末に豊島に帰る息子)作のこの表をご参考にどうぞ。

島に渡る人数が10名以上になった場合は、海上タクシーをチャーターする場合があります。
その際は、事前にご連絡いたしますのでご安心ください。



お申し込みは栗生まで、電話090-4336-3104かメール(sinrincafe@gmail.com)でお願いします。


一人でも多くの方のご参加を、お待ちしています。

  


Posted by マロンアルファー at 18:46Comments(0)豊島

2011年12月03日

しあわせで、いてください。

本日、12月3日は、父の命日。
2003年のこの日この時間に療養先の病院から「父の容体が急変した」と連絡があり、坂出に向かった。



父が亡くなった年にどんぐりネットの白井さんに出会い、

翌年には白井さんの導きでどんぐりランドに行くようになりどんぐりネットの大石さんに出会い、

翌々年には大石さんのお導きによって師匠・明石さんに出会って遊ゼミに誘っていただき、

そこで出会った浜崎さんと林さんにJCIの大会での大きな舞台での仕事を戴き、

まちラボが起源である環瀬戸内海アートコンソーシアムの仲間に入れていただき、三井さんとご縁を戴き、

四国村の仕事を戴き、

明石さんにアーツカウンシルの委員会に入れていただき

その活動の中の個展を通して池田さんを知り、遊ゼミで中條さんを知り、連歌の高城修三先生とご縁を戴き、

まちうたの仕事を戴き、

一方では、三井さんを通じてシブヤ大学のツーリズムのコーディネーターをさせていただき豊島を知り、今に至る。

大石さんに明石さんを紹介していただいた後に、話の中で、実は亡き父は、明石さんが11年間毎日書き続けたコラム一日一言を毎日愛読していて、時々ファンレターのような感想文を送ったり、大切にしていた硯を明石さんに贈っていたことが判明した。




明石さんとの出会いはその前後のご縁も合わせて父の仕業のような気がしてならない。

その後の8年間の流れも、導かれていたような気がする。気のせいかもしれないけど。




父のやっていた川柳のお蔭で、575の世界に親近感を覚えていたこともあり、今、連歌にもまだご縁がつながっている。

父の作った無数の川柳に思いを馳せて、今日は、供養がしたい。

http://shinyokan.ne.jp/sk/_notes/id14hico/index2.html  ←これは一部ですが、よろしければご覧ください。


どうか、そちらの世界で、しあわせでいてください。

とりとめのない供養です。

  


Posted by マロンアルファー at 22:51Comments(0)

2011年05月23日

いきさつ

※文化通信((財)中條文化振興財団季刊誌)への原稿を脱稿しました。
編集長(事務局長)の許しを得て、記録を兼ねて(PCがいつクラッシュするかわからない)ブログにも掲載しました。
※文化通信の掲載内容とは文字数の関係等で若干変わっています。(文化通信のほうが、小見出しがついたり、自体を変えていて読みやすいです)

***********************************

「血屋敷井戸義捐金茶会開催へのいきさつ」

「血屋敷井戸」、三越前というバス停に立ち真後ろを振り返るとそこへの鉄格子の扉はあります。
2008年の暮、この井戸についてユニークな仮説を立てて活動している築港万次郎さんという方と出会ったことから、私の血屋敷井戸とのご縁が始まりました。

「高松はネタの宝庫である」という共通テーマで盛り上がり、氏が執筆中の「源内・コード」という小説のあらすじを聞き興味を抱きました。小説の内容についてはネットで公開されていますので割愛しますが、物語の最初の舞台は高松市美術館。件の血屋敷井戸が壊されたことからいろいろな事件が起こるという設定です。

実際に井戸は、丸亀町駐車場の着工前の埋蔵文化財発掘調査で2005年に発見され、その後石組みがばらされて市内の石材会社で保管されているとのこと。後に復元される予定だったのかどうかは知らないのですが、私が案内された2008年の暮には、井戸のあった場所はアスファルトが敷かれたバイク置き場になっていました。そこに立つと何となく気分が沈んだことを覚えています。

井戸を形作っていた石組のうち、北西角のハート形似の石には、高松城を築城した大名である生駒親正候の家紋である 波切車を逆さにした形と、黒田候の家紋であるクルスに○が合い向かい合う形で刻まれていることを教えていただきました。

築港万さんの説によると、
「生駒候は黒田官兵衛(孝高・シメオン)に高松城築城に対して全幅の信頼を置いていたのみならず、次に天下を取るのは彼をおいてほかにはないと信じ、さまざまな協力をしていた。クルスに○という家紋からも明らかなように黒田官兵衛は、高山右近や小西行長と並ぶキリシタン大名であり、彼の設計した高松城にもその信仰の影響が色濃くでている。

血屋敷井戸の真ん中からその石に向かえば、それは玉藻城(高松城)の天主閣を仰ぐ方角となる。井戸は高松のまちを災いから守るために、風水の教えも取り入れて作られ、礼拝をするため、重大で機密な会議や茶会のために大切に使われていた。井戸の大きさは縦6、横4という大きさに対して深さが1.5(m)という、一般的な井戸の形態とかけ離れたサイズである。世界を見渡せば、このサイズがキリスト教やユダヤ教で使われる古代の洗礼槽と似ていることに気付く。

この井戸に「血屋敷」というおどろおどろしい名前をつけたのは、後の世に出てきた平賀源内である。すでに松平藩時代には馬場となっていた城内の地図の同じ場所に「血屋敷井戸趾」と彼が書き込んだ理由は、恐ろしい名前をつけておけば、人々が畏れてこの大切な遺跡を壊さないだろうと考えた。もう一つは、血屋敷の血は「王家の血筋」の血、井戸は「碗」、つまり聖なる器=「聖杯」を表す源内の暗号であり、聖杯で表されるマクダラのマリアの棺は高松市美術館の下にある。それを謎ときや謎かけの天才だった源内が気づいて、書き込んだ。」

私は、あまりにも飛躍しているとはいえ、奇想天外なこの説に「面白い!!」と大いに興奮して、少しの間、角川書店に小説を売り込むという作業を手伝いました。が3億円を集めて映画化して高松を世界の聖地にするという目標に、急に我に返って逃げ腰になり、2009年の年明けに、「もうこれ以上は協力できません」と、高松市美術館のナガレバチの彫刻の前で「暇乞い」をしました。築港万さんの悲しい笑顔を置きざりに美術館を出た翌日、雨の片原町商店街を自転車で走っているときに、交差点でブレーキを誤り転倒して胸を強打。その後1か月くらい息をするたびに胸が痛いという症状を聞いた友人から「それ間違いなく肋骨骨折してたと思うよ」と言われました。「バチ」があたったのかもしれません。

玉藻城、栗林公園、城下町の街並み、野原の庄といわれていたこの湿地帯を開拓し、西島八兵衛という治水の天才技術者を呼んで郷東川をかけかえ、高松というまちの土台を作った生駒候。生駒家が秋田県に移封されたのちに高松藩主となり、この土台を大切に、さらに磨きをかけ発展させた松平候。

この素晴らしい高松のまちのおこりを知れば知るほど、まだあまり光が当たっていないと感じる生駒候の功績を、せめて高松の人たちが知り称えることがとても大切なのではないか、という思いが強くなっていた2011年の年明けに、久しぶりに築港万さんに電話をかけました。

「一昨年には失礼なことを申してすみませんでした。(中略)相変わらず等身大のことしかできませんが、今、なにか手伝えることがあればおっしゃってください」。時はちょうど長きにわたる築港万さんの渾身の活動もあり、バラバラにされていた血屋敷井戸の石がもとどおりに復元されている最中でした。そして「3月13日に復元が完了するので、それを記念するお茶会をしてほしい」と要請を受けました。

一旦お返事したものの、普段使いの道具しか持っていない私が400年以上ぶりにあの場所で茶会をすることを考えれば考えるほど恐ろしくなりました。悩んでいたときに、敬愛するゴッドマザー中條比紗美さんから別件でお電話をいただき、「実は、こんな大変なことを頼まれました。バチが当たるのが怖くて断ることもできずにいます」と打ち明けたところ、「井戸は大切だからやりましょう。」と即座に言っていただき、「もしかしたらおじいさんがあの井戸でお茶会をしていたかもしれない大内さん(三友堂オーナー)にご相談しましょう」と提案されました。その大内さんの全面協力をいただき、当日は大内家に代々伝わるお道具を使い、紋付き袴姿で供茶と点前をしてくださりました。井戸や水や文化・遺構の縁の方にもご出席いただいて、血屋敷井戸復元記念茶会は無事終わりました。

その茶会の2日前に起こった未曾有の東日本の大地震の報道で、南三陸町長さんが、被災時の様子を生々しく話された後、「何か全国のみなさんにおっしゃりたいことは?」と聞かれ、「とにかく、水と食料を・・・」と言いかけて、それまでは気丈にお話していたのに、言葉が詰まって後が続かなくなってしまった映像を見て涙が込み上げました。そして、自分にいったいなにができるんだろうと、考え始めました。

記念茶会の水屋見舞でいただいた15000円を義捐金にしようと思いましたが、もうちょっと考えて、せっかくなら、東北の人たちを助けたいと思っているほかの高松市民とも気持ちをわかちあえる方法をと、15000円を原資にした「義捐金茶会」を思いつきました。

お茶というのは、不思議な役割があって、人を「お茶が飲めるなら行こうかな」と動かす原動力にもなるし、人と人をつなげる触媒にもなる、疲れた人を慰める一塊の暖にもなります。どうか、「お茶」が被災した人が、明日からちょっとでも笑っていられ、日本中のみんなが応援していることを知り勇気を持ってもらえる媒体になりますようにと、20日の実施を決めました。周辺の仲のいい人たちにメールをしたところ、るいままをはじめとした善意の方々に協力いただき、多くの来場者に恵まれて茶会は開催され、15,000円は170,000円超に膨らみ、翌日日本赤十字社にすべてを寄付することができました。

今、あの井戸は、とても気持ちのいい場所に変わっています。座っているだけで、地面から「気」のようなものがまっすぐに天に向かってすうっと昇っていくような。先日、下見を兼ねて井戸にご案内したある銀行の支店長さんが「ここに来る前は実は頭痛がしていたのに、入ってしばらくしたら治りました」と言われました。

今後、血屋敷井戸が、きっとどこかで見守っておられる生駒候の御霊が喜ぶこと、すなわち「人が集い楽しむ」「疲れた人を癒す」「他を愛する」「自分のいまあることを感謝する」、そして生駒候のことを知り思い出す、高松市民に愛される場所になることを願ってやみません。

皆様方の血屋敷井戸へのお心寄せ、今後のご活用をどうかお願い申し上げます。
  


Posted by マロンアルファー at 16:10Comments(0)

2011年04月13日

躊躇の理由と飛び込んだ理由/お礼の会

3月初めに「石井さんが選挙にでることを決めた」と真夜中の電話を受けたときは、すぐに「よっしゃ。私も思いっきり手伝うからがんばろう」と、すぐに言えませんでした。

亡き父が人生の多くの時間を選挙に捧げた人だった。そのために寿命が縮んだと思ってるので、政治には興味が持てたところで、選挙には目を向けていませんでした。なので、大切な友人からの連絡だったけれど、正直、自分がそこにかかわることに戸惑いを隠せませんでした。

父が代議士秘書としてかかわっている家族として私が見てきた「選挙手法」というのは、人に頭を下げていくこと。政治家がどんな国にしたいと思っているかということ具体的にを見せること(それのみがひたすら選挙運動と私は思う)ではなくて、そうじゃないところ(お葬式に花輪を何本出した、とか、結婚式でスピーチしくれた、何々に顔を出してくれた、どっかのカントリーエレベーターを作ってくれた)ばかりが重要視されている空気を感じていました。

それでも、信奉する方の娘婿である代議士のためと喜んで命を削っていた父はある日、筋萎縮性側索硬化症という原因不明の病に倒れた。病院に入院したときに一度お見舞いに来てくれたときの代議士の言葉や、お葬式のときの代議士の様子を見て、はたしてこの人は父が命をささげるほどの人だったのか?と、疑問を持つ気持ちになったことを思い出しました。

「あの選挙、あのやり方、あの時間の数々」がよみがえってきて、すぐに「わかった、思いっきり手伝うよ」と、言いませんでした。


豊島で出会ってそこでの活動や高松での活動を通して、最初は「この人は、どうして、ありがとうとごめんなさいをあまり言わないのだろう」と思っていたクールに見えた石井さんの、本当はとても暖かな(特に弱いものに対して)人柄やこれまでやってきたことを十分知っているつもりで、こんな人ばかりが議員さんになれば、香川は確実に変わる、と確信していたにもかかわらず、です。

3日くらい迷い続けたある日、「石井さんの立候補で砂川さんが元気になった」と聞きました。石井さんを島の誇る人材と言ってはばからない砂川さんと児島さん(石井さんの後援会長@島)が、まず、石井さんの決意を歓迎し、祝福した。どこからであろうと、豊島の誇る人材が県政で活躍できるのは素晴らしいことじゃ、と。

これを聞いて完全にふっきれました。

砂川さんが元気になったなら私もできる限りのことをしよう」

お金もない、時間もない、人もいない、組織票といわれる票なんか皆無、それでも、石井さんに本当に県政をやってほしいという思いがみんなの共通項となり、助っ人(特に20代30代の若者)が降ってきて、そこに80代の砂川さんと70代の児島さんが加わって、気が付いたら選挙事務所は、とても素敵な空間になっていました。平均睡眠時間3時間(私はもっと寝ていたけど)で、できることは全部やって、投票日がきました。


今回の香川県議会議員選挙。石井とおるに興味を持ってくださってお力をいただいたみなさん、本当にありがとうございました。


結果は落選という残念な結果になりました。せっかくお力をいただいたのに申し訳ありません。

が、何の地盤も組織もない中で、1900人あまりの方が、投票所に足を運び、「石井とおる」と書いてくださったこと自体を、奇跡のようにありがたく思えます。

石井とおるは、「地域の利益代表」的な働きをしない政治家だと思います。今回、彼に投票してくださった人は、一人残らず、目先の利益にとらわれるのではなく、本当に県政を健全なものにしたいと、心から思っている方に他ならないと、勝手に断言させてもらいます。

4月10日の夜中、開票結果が出きったところで、一緒に選挙運動を戦った仲間と反省会をしました。

認識を共有できたのは、「これがスタートである。1900票を基礎票に、次の3年~4年間、石井さんのことを知ってもらう地道な座談会活動をしよう・一人一人と対話していこう」ということでした。

彼のやろうとしていること、考えていることを一人でも多くの方に届けるため、今後もお心を寄せていただければ幸甚です。

ありがとうございました。


近く、投票してくださった1900人の方にお礼を言う会を企画したいと思っています。
詳細は全く未定ですが、実施したいと思っています。
対象は、石井とおるに投票してくれた人、興味を持ってくれた人、今興味を持ってくれる人、の3種類です。
ここでもご案内する予定ですので、よろしくお願します。




  
タグ :石井とおる


Posted by マロンアルファー at 14:29Comments(0)政治は生活

2011年04月03日

いろいろ選挙考

昨夜、某夜ゼミにて、応援している政治家のチラシを配り、構想を代理で語るという身の知らずなことをしてみました。

そこは、香川県の「文化人」「哲学者」「評論家」「政治家」「学者」など、錚々たる人々の集まりでした。


その方がなぜ地元ではなく別のところから立候補したかという質問をいただいたので、「理想選挙」という考え方について、受け売りで語ったところ、つっこまれて、血だらけに。。

さらに、「ポスターの顔がガラが悪い。もう少しやわらかい表情じゃないと、入れたいと思わない」と、会場にいた二人の論客にも言われてしまいました。

個人的には、腹は真っ黒なのに笑顔だけまっ白な笑顔のポスターって見てて気持ちが悪いけど、それに比べてなんて凛々しいんだろう、(むしろ本人よりも素敵にできてる!)と惚れ惚れしていたので、そのショックたるや。。

それでも気を取り直して、
「もうそろそろ、ポスターの表情や、イメージだけで選挙するのはやめませんか?」というと、
「それを屁理屈というんだよ」と怒られて、散々。


まだまだここでは(きっと日本全国でも)理想選挙も、強面のポスターも、市民権が得られていないのが現状のようです。


たとえば、田中康夫、たとえば鳩山由紀夫は、自分の地元ではないところから立候補をしていますが、これが理想選挙のひとつです。議員が「地域の利益代表にはならない形」を理想選挙というそうです。

地元から出ている立候補した人が当選したら、「じゃあ、うちの近くのこの道を広くしてもらえる」等、地元に利益を還元することが、暗黙のうちに求められますが、本来議会の議員の役割は、予算をできるだけたくさん分捕って、地元に還元して「私ががんばりました」ということなんじゃなかったんじゃないでしょうか。

みんながそれをしていたら、議会はただの予算の各地元への分捕り合戦となってしまい、その県なり、市なりで、みんなで議論してルールや方向を考えて決めなければならないことは、二の次にならないだろうか。


実は、長く、そんな疑問を持っていたのですが、「理想選挙」という抽象的な名前の言葉の意味を教えられて、長年の疑問が払しょくされました。



それから、いまだに日本では、候補者によるネットでの選挙運動は禁じられています。この見解については、近年微妙に意見がわかれていたりもしているようですが、有権者が、できるだけ多くの候補者の情報を得るのには、双方ともに使えるツールはどんどん使うのが本来だと思うのですが、いまだに禁止という理由が、考えつきません。

ネット選挙に関する考え方:参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E9%81%B8%E6%8C%99
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100628/215161/







本来の議会のあるべき姿(これがきちんとなされていたら、そもそも「事業仕訳」などという手法が脚光を浴びることはなかったですね)、議員の本来の役割、そして、自分たちが代表を選ぶ基準、選んだあとのチェックの仕方、、そして、本来あるべき選挙の姿ってどんなんだろう。


縁があって、生まれて初めて選挙の手伝いを始めたことから、これまで考えたこともなかったこと、考えてみたけど結論がでなかったことを、改めて考える貴重な機会を与えられております。




政治は生活、人生と直結している。

若者よ、投票所に行こう。






  
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Posted by マロンアルファー at 22:33Comments(0)政治は生活

2011年03月21日

血屋敷井戸義捐金茶会ご報告(内容更新3月22日午後)

このブログで告知いたしました、20日開催の、血屋敷井戸義捐金茶会について、お約束により、これよりご報告申し上げます。

まずは義捐金と寄付してくださった人の情報から。

★義捐茶(抹茶、コーヒー、ハーブティ)  売り上げ金 49,500円が集まりました。

★義捐金は、以下の方々のご芳志により  124,730円が集まりました。
小川将信さま 10口
石川由美さま  1口
蓮井愛渚さま
蓮井里渚さま
木村美香さま
武井伊織さま
前田 侑さま 2口
赤松未枝子さま 2口
橋本卓也 1口
岸 達也さま 3口
牟礼し(糸糸)津子さま
高橋司枝さま 
御城俊宏さま 10口
小川 凛さま
野崎千恵さま 5口
別所治親さま
別所千尋さま
蓮井隼介さま
新和開発さま 10口
香川がん患者おしゃべり会さま 5口
ノイリー・プラットさま 1口
高地正人さま 1口
池田靖夫さま 1口
増田裕司さま 3口
多田裕彦さま 5口
たみ家さま 1口
金澤賢治さま 5口
ペンペンさま 3口(追加義捐金)

受付順、56名(匿名希望の方を含む)


★ご協力いただいた方々
宗家くつわ堂さま(瓦せんべい)
原ヲビヤ園さま(茶碗、水屋道具一式貸与、義捐金)
三友堂さま(机貸し出し、お菓子割引)
フェアトレードコーヒーhalqaさま(コーヒー豆1キロ)
中條文化振興財団さま(銘銘盆貸与)
セカンドステージ薮内さま(差し入れシフォンケーキ)
NHK高松放送局さま(事前告知・取材・ニュース)
杉ノ内由紀さま(取材・事前告知・四国4局ネットラジオ番組での紹介)





★★義捐茶売り上げ+義捐金=174,230円

★★★
当日サポートしてくれた人たち
@るいまま組
 るいまま(準備・会場設営・種々声かけ)
 るみるみ(会場設営・コーヒーミルレスキュー)
 みっけ(義援金受付・街頭よびかけ)
 ぴよ旦那(カフェ道具提供・コーヒーブース担当・シフォンケーキ提供)
 ぽんた(会場設営・義援金受付)
 GONBE(お抹茶ブース支援)
 さっち(会場設営・街頭よびかけ・報道支援)
 ぴよ(会場片付け・告知支援)
 かいと(会場設営・接待)
 みっち(水支援)
 姫(水支援)
@オリーブガイナーズ
 じゅんじゅん(カフェブース支援・接待)
@エールみらい
 てるちゃん(オリーブの木提供、看板用コンパネ調達、ハーブティ寄付、お菓子寄付誘致、水支援)
 てるちゃん相方(同上)
@あしたさぬき
 となきち(街頭での呼びかけ・水支援)
 くりす(水支援)
 UDマン(エール)
@デューク更家公認ウォーキングスタイリスト
 ほのきち(街頭での呼びかけ・井戸ガイド補助・水支援)
@高畠守徹武者小路千家社中
 川西洋子(井戸ガイド補助)
 原ヲビヤ園(準備)
@せとちとせとら
 せとちとせ(凱旋ライブ)



関わってくれたみなさんの思いがいっぱいつまった、174,230円を持って、明日(本日)四国新聞(日本赤十字社)に行って寄付手続きをしてまいります。



なお、
血屋敷井戸の詳細については、この井戸の復元に情熱を注ぎ続けらている築港万次郎さんのこちらのHPをご参照ください。
また、小説源内コードには、この血屋敷井戸にまつわるエピソードが鏤められています。是非ご一読を!

生駒家の家紋と築城の天才といわれた黒田如水の家紋の刻まれた石が組み込まれた「血屋敷井戸」。

この井戸の命名の理由や、井戸の存在理由等には、諸説あると思います。
このHPで紹介されている築港万さんの説には、「ええっ?」と驚くようなことや、「飛躍しすぎでは?」と感じる部分がいくつかあります。

が、私は、一度壊されてバラバラの石になっていた血屋敷井戸の復元が高松のまちを幸せにすると信じて、壊された井戸の復元への説得作業に人生の多くの時間を捧げている築港万さんの説を尊重し、讃岐のまちと民を災いから守るためにこの井戸を作った生駒親正候の、この大切な遺跡の御霊が喜ぶことに、これからも井戸を活用していきたいと思っています。


今回、告知から始まって、準備、当日不足品調達、受付、お茶点て、茶碗洗い、コーヒー、ハーブティ、お菓子調達、お茶調達などを支えてくださった皆さんのこと、また、本日の様子については、るいままとしての365日に詳しく紹介していただいていますので、ご参照ください。


実は、この井戸の復元が完了した3月13日(日)に、築港万さんの依頼で、中條財団のゴッドマザーと、武者小路千家のお茶の普及に尽力されている三友堂社長の大内さんのご協力を得て、井戸の復元を記念した供茶および記念茶会を実施しました。

供茶が無事終わった後、地震の報道で、テレビで町の半分の人たちが津波でいなくなってしまったところの町長さんが、被災時の様子を生々しく話された後、「何か全国のみなさんにおっしゃりたいことは?」と聞かれ、「とにかく、水と食料を・・・」と言いかけて、それまでは気丈にお話していたのに、言葉が詰まって後が続かなくなってしまった映像を見て涙が込み上げました。そして、自分にいったいなにができるんだろうと、考え始めました。

復元記念供茶でいただいた水屋見舞の15000円を義捐金に寄付しようかと考えたけれど、もうちょっと考えて、せっかくなら、東北の人たちを助けたいと思っている高松市民はほかにもいるんじゃないか、そんな人たちと、応援したい気持ちをわかちあえる方法があるんじゃないかと思い、ここまで考えたときにに、「義捐金茶会」を思いつきました。

いただいた15000円を原資にして、お茶とお菓子を買って、あの井戸でお茶を点て、お客さまからは500円をいただいて、その売上金を寄付しようと。15000円から少しでも増えてたらいいなと。

お茶というのは、不思議な役割があって、人を「あ、お茶飲みに行こう」と動かす原動力にもなるし、人と人をつなげる触媒にもなる、疲れた人を慰める一塊の暖にもなります。どうか、「お茶」が、被災した人が、明日からちょっとでも笑っていられる、日本中のみんなが応援していることを知って勇気を持ってもらえる媒体になりますように、と願って、20日の井戸の使用許可をもらって、水曜日に実施を決めました。

思いついたときには、誰にも手伝いを頼んでいなかったので、私がお茶を点てて、築港万さんにお茶碗洗いを手伝ってもらって、井戸の説明をしたり、、お菓子とのセットはセルフで、、なんてこじんまりした「茶会」を想定していました。

そして、自分の周りの人に少しずつメールをしました。

ところが、これをキャッチしたるいままがすかさず反応してくれて、まず「いくよ」「手伝いはおるん?」「ストーブはあるん?」というメールから始まって、あっという間にあのギガ拡散装置で紹介してくれました。メールで少しずつ案内を送った翌日にはすでにNHKさんやFMの取材があり、言い出した私があたふたと取り残され感を感じるほと、それは、精力的なものでした。

貴重な日曜日を茶会に使ってくださった善意の人100人と、義捐金や義捐品をくださった56人(武者小路千家高畠先生社中の方を多く含む)と、長時間立ちっぱなしで茶会を手伝ってくれた10人以上の人、そして、せとちとせさんの魂の歌のお陰で、この、あえておどろおどろしい名前がつけられた血屋敷井戸跡が、とても暖かな、光が溢れるような、ずっと座っていたい、気持ちのいい気がぐんぐん回っているような場所に戻ったと感じました。




ここに、今回茶会に関わってくれた、すべての方に、心から、感謝します。

ありがとうございました。







  


Posted by マロンアルファー at 02:03Comments(3)茶の湯

2011年03月18日

ロボットは被曝したら狂って動かないのでそこでは人間が作業する



原子力発電所について、私はあまりにも認識が薄かった、と思わざるを得ない、とてもわかりやすいウェブをご紹介いただいたので、全文をペーストします。

いったい、どうすればいいのか。
命がけで子どもも巻き込んで、この国をやり直すために、立ち上がるのか。

それとも

子どもを連れて、地球の裏側に逃げ出すべきなのか。。。



リンク先はこちらです。

こちらは、著者の平井さんとの対談記事です。

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原発がどんなものか知ってほしい(全)

平井憲夫

私は原発反対運動家ではありません

 私は原発反対運動家ではありません。二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。


 はじめて聞かれる話も多いと思います。どうか、最後まで読んで、それから、原発をどうしたらいいか、みなさんで考えられたらいいと思います。原発について、設計の話をする人はたくさんいますが、私のように施工、造る話をする人がいないのです。しかし、現場を知らないと、原発の本当のことは分かりません。

 私はプラント、大きな化学製造工場などの配管が専門です。二○代の終わりごろに、日本に原発を造るというのでスカウトされて、原発に行きました。一作業負だったら、何十年いても分かりませんが、現場監督として長く働きましたから、原発の中のことはほとんど知っています。

「安全」は机上の話

 去年(一九九五年)の一月一七日に阪神大震災が起きて、国民の中から「地震で原発が壊れたりしないか」という不安の声が高くなりました。原発は地震で本当に大丈夫か、と。しかし、決して大丈夫ではありません。国や電力会社は、耐震設計を考え、固い岩盤の上に建設されているので安全だと強調していますが、これは机上の話です。

 この地震の次の日、私は神戸に行ってみて、余りにも原発との共通点の多さに、改めて考えさせられました。まさか、新幹線の線路が落下したり、高速道路が横倒しになるとは、それまで国民のだれ1人考えてもみなかったと思います。

 世間一般に、原発や新幹線、高速道路などは官庁検査によって、きびしい検査が行われていると思われています。しかし、新幹線の橋脚部のコンクリートの中には型枠の木片が入っていたし、高速道路の支柱の鉄骨の溶接は溶け込み不良でした。一見、溶接がされているように見えていても、溶接そのものがなされていなくて、溶接部が全部はずれてしまっていました。

 なぜ、このような事が起きてしまったのでしょうか。その根本は、余りにも机上の設計ばかりに重点を置いていて、現場の施工、管理を怠ったためです。それが直接の原因ではなくても、このような事故が起きてしまうのです。

素人が造る原発

 原発でも、原子炉の中に針金が入っていたり、配管の中に道具や工具を入れたまま配管をつないでしまったり、いわゆる人が間違える事故、ヒューマンエラーがあまりにも多すぎます。それは現場にブロの職人が少なく、いくら設計が立派でも、設計通りには造られていないからです。机上の設計の議論は、最高の技量を持った職人が施工することが絶対条件です。しかし、原発を造る人がどんな技量を持った人であるのか、現場がどうなっているのかという議論は1度もされたことがありません。

 原発にしろ、建設現場にしろ、作業者から検査官まで総素人によって造られているのが現実ですから、原発や新幹線、高速道路がいつ大事故を起こしても、不思議ではないのです。

 日本の原発の設計も優秀で、二重、三重に多重防護されていて、どこかで故障が起きるとちゃんと止まるようになっています。しかし、これは設計の段階までです。施工、造る段階でおかしくなってしまっているのです。

 仮に、自分の家を建てる時に、立派な一級建築士に設計をしてもらっても、大工や左官屋の腕が悪かったら、雨漏りはする、建具は合わなくなったりしますが、残念ながら、これが日本の原発なのです。

 ひとむかし前までは、現場作業には、棒心(ぼうしん)と呼ばれる職人、現場の若い監督以上の経験を積んだ職人が班長として必ずいました。職人は自分の仕事にプライドを持っていて、事故や手抜きは恥だと考えていましたし、事故の恐ろしさもよく知っていました。それが十年くらい前から、現場に職人がいなくなりました。全くの素人を経験不問という形で募集しています。素人の人は事故の怖さを知らない、なにが不正工事やら手抜きかも、全く知らないで作業しています。それが今の原発の実情です。

 例えば、東京電力の福島原発では、針金を原子炉の中に落としたまま運転していて、1歩間違えば、世界中を巻き込むような大事故になっていたところでした。本人は針金を落としたことは知っていたのに、それがどれだけの大事故につながるかの認識は全然なかったのです。そういう意味では老朽化した原発も危ないのですが、新しい原発も素人が造るという意味で危ないのは同じです。

 現場に職人が少なくなってから、素人でも造れるように、工事がマニュアル化されるようになりました。マニュアル化というのは図面を見て作るのではなく、工場である程度組み立てた物を持ってきて、現場で1番と1番、2番と2番というように、ただ積木を積み重ねるようにして合わせていくんです。そうすると、今、自分が何をしているのか、どれほど重要なことをしているのか、全く分からないままに造っていくことになるのです。こういうことも、事故や故障がひんぱんに起こるようになった原因のひとつです。

 また、原発には放射能の被曝の問題があって後継者を育てることが出来ない職場なのです。原発の作業現場は暗くて暑いし、防護マスクも付けていて、互いに話をすることも出来ないような所ですから、身振り手振りなんです。これではちゃんとした技術を教えることができません。それに、いわゆる腕のいい人ほど、年問の許容線量を先に使ってしまって、中に入れなくなります。だから、よけいに素人でもいいということになってしまうんです。

 また、例えば、溶接の職人ですと、目がやられます。30歳すぎたらもうだめで、細かい仕事が出来なくなります。そうすると、細かい仕事が多い石油プラントなどでは使いものになりませんから、だったら、まあ、日当が安くても、原発の方にでも行こうかなあということになります。

 皆さんは何か勘違いしていて、原発というのはとても技術的に高度なものだと思い込んでいるかも知れないけれど、そんな高級なものではないのです。

 ですから、素人が造る原発ということで、原発はこれから先、本当にどうしようもなくなってきます。

名ばかりの検査・検査官

 原発を造る職人がいなくなっても、検査をきっちりやればいいという人がいます。しかし、その検査体制が問題なのです。出来上がったものを見るのが日本の検査ですから、それではダメなのです。検査は施工の過程を見ることが重要なのです。

 検査官が溶接なら溶接を、「そうではない。よく見ていなさい。このようにするんだ」と自分でやって見せる技量がないと本当の検査にはなりません。そういう技量の無い検査官にまともな検査が出来るわけがないのです。メーカーや施主の説明を聞き、書類さえ整っていれば合格とする、これが今の官庁検査の実態です。

 原発の事故があまりにもひんぱんに起き出したころに、運転管理専門官を各原発に置くことが閣議で決まりました。原発の新設や定検(定期検査)のあとの運転の許可を出す役人です。私もその役人が素人だとは知っていましたが、ここまでひどいとは知らなかったです。

 というのは、水戸で講演をしていた時、会場から「実は恥ずかしいんですが、まるっきり素人です」と、科技庁(科学技術庁)の者だとはっきり名乗って発言した人がいました。その人は「自分たちの職場の職員は、被曝するから絶対に現場に出さなかった。折から行政改革で農水省の役人が余っているというので、昨日まで養蚕の指導をしていた人やハマチ養殖の指導をしていた人を、次の日には専門検査官として赴任させた。そういう何にも知らない人が原発の専門検査官として運転許可を出した。美浜原発にいた専門官は三か月前までは、お米の検査をしていた人だった」と、その人たちの実名を挙げて話してくれました。このようにまったくの素人が出す原発の運転許可を信用できますか。

 東京電力の福島原発で、緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動した大事故が起きたとき、読売新聞が「現地専門官カヤの外」と報道していましたが、その人は、自分の担当している原発で大事故が起きたことを、次の日の新聞で知ったのです。なぜ、専門官が何も知らなかったのか。それは、電力会社の人は専門官がまったくの素人であることを知っていますから、火事場のような騒ぎの中で、子どもに教えるように、いちいち説明する時間がなかったので、その人を現場にも入れないで放って置いたのです。だから何も知らなかったのです。

 そんないい加減な人の下に原子力検査協会の人がいます。この人がどんな人かというと、この協会は通産省を定年退職した人の天下り先ですから、全然畑違いの人です。この人が原発の工事のあらゆる検査の権限を持っていて、この人の0Kが出ないと仕事が進まないのですが、検査のことはなにも知りません。ですから、検査と言ってもただ見に行くだけです。けれども大変な権限を持っています。この協会の下に電力会社があり、その下に原子炉メーカーの日立・東芝・三菱の三社があります。私は日立にいましたが、このメーカーの下に工事会社があるんです。つまり、メーカーから上も素人、その下の工事会社もほとんど素人ということになります。だから、原発の事故のことも電力会社ではなく、メー力-でないと、詳しいことは分からないのです。

 私は現役のころも、辞めてからも、ずっと言っていますが、天下りや特殊法人ではなく、本当の第三者的な機関、通産省は原発を推進しているところですから、そういう所と全く関係のない機関を作って、その機関が検査をする。そして、検査官は配管のことなど経験を積んだ人、現場のたたき上げの職人が検査と指導を行えば、溶接の不具合や手抜き工事も見抜けるからと、一生懸命に言ってきましたが、いまだに何も変わっていません。このように、日本の原発行政は、余りにも無責任でお粗末なものなんです。

いいかげんな原発の耐震設計

 阪神大震災後に、慌ただしく日本中の原発の耐震設計を見直して、その結果を九月に発表しましたが、「どの原発も、どんな地震が起きても大丈夫」というあきれたものでした。私が関わった限り、初めのころの原発では、地震のことなど真面目に考えていなかったのです。それを新しいのも古いのも一緒くたにして、大丈夫だなんて、とんでもないことです。1993年に、女川原発の一号機が震度4くらいの地震で出力が急上昇して、自動停止したことがありましたが、この事故は大変な事故でした。なぜ大変だったかというと、この原発では、1984年に震度5で止まるような工事をしているのですが、それが震度5ではないのに止まったんです。わかりやすく言うと、高速道路を運転中、ブレーキを踏まないのに、突然、急ブレーキがかかって止まったと同じことなんです。これは、東北電力が言うように、止まったからよかった、というような簡単なことではありません。5で止まるように設計されているものが4で止まったということは、5では止まらない可能性もあるということなんです。つまり、いろんなことが設計通りにいかないということの現れなんです。

 こういう地震で異常な止まり方をした原発は、1987年に福島原発でも起きていますが、同じ型の原発が全国で10もあります。これは地震と原発のことを考えるとき、非常に恐ろしいことではないでしょうか。

定期点検工事も素人が

 原発は1年くらい運転すると、必ず止めて検査をすることになっていて、定期検査、定検といっています。原子炉には70気圧とか、150気圧とかいうものすごい圧力がかけられていて、配管の中には水が、水といっても300℃もある熱湯ですが、水や水蒸気がすごい勢いで通っていますから、配管の厚さが半分くらいに薄くなってしまう所もあるのです。そういう配管とかバルブとかを、定検でどうしても取り替えなくてはならないのですが、この作業に必ず被曝が伴うわけです。

 原発は一回動かすと、中は放射能、放射線でいっぱいになりますから、その中で人間が放射線を浴びながら働いているのです。そういう現場へ行くのには、自分の服を全部脱いで、防護服に着替えて入ります。防護服というと、放射能から体を守る服のように聞こえますが、そうではないんですよ。放射線の量を計るアラームメーターは防護服の中のチョッキに付けているんですから。つまり、防護服は放射能を外に持ち出さないための単なる作業着です。作業している人を放射能から守るものではないのです。だから、作業が終わって外に出る時には、パンツー枚になって、被曝していないかどうか検査をするんです。体の表面に放射能がついている、いわゆる外部被曝ですと、シャワーで洗うと大体流せますから、放射能がゼロになるまで徹底的に洗ってから、やっと出られます。

 また、安全靴といって、備付けの靴に履き替えますが、この靴もサイズが自分の足にきちっと合うものはありませんから、大事な働く足元がちゃんと定まりません。それに放射能を吸わないように全面マスクを付けたりします。そういうかっこうで現場に入り、放射能の心配をしながら働くわけですから、実際、原発の中ではいい仕事は絶対に出来ません。普通の職場とはまったく違うのです。

 そういう仕事をする人が95%以上まるっきりの素人です。お百姓や漁師の人が自分の仕事が暇な冬場などにやります。言葉は悪いのですが、いわゆる出稼ぎの人です。そういう経験のない人が、怖さを全く知らないで作業をするわけです。

 例えば、ボルトをネジで締める作業をするとき、「対角線に締めなさい、締めないと漏れるよ」と教えますが、作業する現場は放射線管理区域ですから、放射能がいっぱいあって最悪な所です。作業現場に入る時はアラームメーターをつけて入りますが、現場は場所によって放射線の量が違いますから、作業の出来る時間が違います。分刻みです。

 現場に入る前にその日の作業と時間、時間というのは、その日に浴びてよい放射能の量で時間が決まるわけですが、その現場が20分間作業ができる所だとすると、20分経つとアラ-ムメーターが鳴るようにしてある。だから、「アラームメーターが鳴ったら現場から出なさいよ」と指示します。でも現場には時計がありません。時計を持って入ると、時計が放射能で汚染されますから腹時計です。そうやって、現場に行きます。

 そこでは、ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。ですからネジを対角線に締めなさいと言っても、言われた通りには出来なくて、ただ締めればいいと、どうしてもいい加滅になってしまうのです。すると、どうなりますか。

放射能垂れ流しの海

 冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。

 海に放射能で汚れた水をたれ流すのは、定検の時だけではありません。原発はすごい熱を出すので、日本では海水で冷やして、その水を海に捨てていますが、これが放射能を含んだ温排水で、一分間に何十トンにもなります。

 原発の事故があっても、県などがあわてて安全宣言を出しますし、電力会社はそれ以上に隠そうとします。それに、国民もほとんど無関心ですから、日本の海は汚れっぱなしです。

 防護服には放射性物質がいっぱいついていますから、それを最初は水洗いして、全部海に流しています。排水口で放射線の量を計ると、すごい量です。こういう所で魚の養殖をしています。安全な食べ物を求めている人たちは、こういうことも知って、原発にもっと関心をもって欲しいものです。このままでは、放射能に汚染されていないものを選べなくなると思いますよ。

 数年前の石川県の志賀原発の差止め裁判の報告会で、八十歳近い行商をしているおばあさんが、こんな話をしました。「私はいままで原発のことを知らなかった。今日、昆布とわかめをお得意さんに持っていったら、そこの若奥さんに「悪いけどもう買えないよ、今日で終わりね、志賀原発が運転に入ったから」って言われた。原発のことは何も分からないけど、初めて実感として原発のことが分かった。どうしたらいいのか」って途方にくれていました。みなさんの知らないところで、日本の海が放射能で汚染され続けています。

内部被爆が一番怖い

 原発の建屋の中は、全部の物が放射性物質に変わってきます。物がすべて放射性物質になって、放射線を出すようになるのです。どんなに厚い鉄でも放射線が突き抜けるからです。体の外から浴びる外部被曝も怖いですが、一番怖いのは内部被曝です。

 ホコリ、どこにでもあるチリとかホコリ。原発の中ではこのホコリが放射能をあびて放射性物質となって飛んでいます。この放射能をおびたホコリが口や鼻から入ると、それが内部被曝になります。原発の作業では片付けや掃除で一番内部被曝をしますが、この体の中から放射線を浴びる内部被曝の方が外部被曝よりもずっと危険なのです。体の中から直接放射線を浴びるわけですから。

 体の中に入った放射能は、通常は、三日くらいで汗や小便と一緒に出てしまいますが、三日なら三日、放射能を体の中に置いたままになります。また、体から出るといっても、人間が勝手に決めた基準ですから、決してゼロにはなりません。これが非常に怖いのです。どんなに微量でも、体の中に蓄積されていきますから。

 原発を見学した人なら分かると思いますが、一般の人が見学できるところは、とてもきれいにしてあって、職員も「きれいでしょう」と自慢そうに言っていますが、それは当たり前なのです。きれいにしておかないと放射能のホコリが飛んで危険ですから。

 私はその内部被曝を百回以上もして、癌になってしまいました。癌の宣告を受けたとき、本当に死ぬのが怖くて怖くてどうしようかと考えました。でも、私の母が何時も言っていたのですが、「死ぬより大きいことはないよ」と。じゃ死ぬ前になにかやろうと。原発のことで、私が知っていることをすべて明るみに出そうと思ったのです。

普通の職場環境とは全く違う

 放射能というのは蓄積します。いくら徴量でも十年なら十年分が蓄積します。これが怖いのです。日本の放射線管理というのは、年間50ミリシーベルトを守ればいい、それを越えなければいいという姿勢です。

 例えば、定検工事ですと三ケ月くらいかかりますから、それで割ると一日分が出ます。でも、放射線量が高いところですと、一日に五分から七分間しか作業が出来ないところもあります。しかし、それでは全く仕事になりませんから、三日分とか、一週間分をいっぺんに浴びせながら作業をさせるのです。これは絶対にやってはいけない方法ですが、そうやって10分間なり20分間なりの作業ができるのです。そんなことをすると白血病とかガンになると知ってくれていると、まだいいのですが……。電力会社はこういうことを一切教えません。

 稼動中の原発で、機械に付いている大きなネジが一本緩んだことがありました。動いている原発は放射能の量が物凄いですから、その一本のネジを締めるのに働く人三十人を用意しました。一列に並んで、ヨーイドンで七メートルくらい先にあるネジまで走って行きます。行って、一、二、三と数えるくらいで、もうアラームメーターがビーッと鳴る。中には走って行って、ネジを締めるスパナはどこにあるんだ?といったら、もう終わりの人もいる。ネジをたった一山、二山、三山締めるだけで百六十人分、金額で四百万円くらいかかりました。

 なぜ、原発を止めて修理しないのかと疑問に思われるかもしれませんが、原発を一日止めると、何億円もの損になりますから、電力会社は出来るだけ止めないのです。放射能というのは非常に危険なものですが、企業というものは、人の命よりもお金なのです。

「絶対安全」だと五時間の洗脳教育

 原発など、放射能のある職場で働く人を放射線従事者といいます。日本の放射線従事者は今までに約二七万人ですが、そのほとんどが原発作業者です。今も九万人くらいの人が原発で働いています。その人たちが年一回行われる原発の定検工事などを、毎日、毎日、被曝しながら支えているのです。

 原発で初めて働く作業者に対し、放射線管理教育を約五時間かけて行います。この教育の最大の目的は、不安の解消のためです。原発が危険だとは一切教えません。国の被曝線量で管理しているので、絶対大丈夫なので安心して働きなさい、世間で原発反対の人たちが、放射能でガンや白血病に冒されると言っているが、あれは“マッカナ、オオウソ”である、国が決めたことを守っていれば絶対に大丈夫だと、五時間かけて洗脳します。  

 こういう「原発安全」の洗脳を、電力会社は地域の人にも行っています。有名人を呼んで講演会を開いたり、文化サークルで料理教室をしたり、カラー印刷の立派なチラシを新聞折り込みしたりして。だから、事故があって、ちょっと不安に思ったとしても、そういう安全宣伝にすぐに洗脳されてしまって、「原発がなくなったら、電気がなくなって困る」と思い込むようになるのです。

 私自身が二〇年近く、現場の責任者として、働く人にオウムの麻原以上のマインド・コントロール、「洗脳教育」をやって来ました。何人殺したかわかりません。みなさんから現場で働く人は不安に思っていないのかとよく聞かれますが、放射能の危険や被曝のことは一切知らされていませんから、不安だとは大半の人は思っていません。体の具合が悪くなっても、それが原発のせいだとは全然考えもしないのです。作業者全員が毎日被曝をする。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です。本人や外部に被曝の問題が漏れるようでは、現場責任者は失格なのです。これが原発の現場です。

 私はこのような仕事を長くやっていて、毎日がいたたまれない日も多く、夜は酒の力をかり、酒量が日毎に増していきました。そうした自分自身に、問いかけることも多くなっていました。一体なんのために、誰のために、このようなウソの毎日を過ごさねばならないのかと。気がついたら、二〇年の原発労働で、私の体も被曝でぼろぼろになっていました。

だれが助けるのか

 また、東京電力の福島原発で現場作業員がグラインダーで額(ひたい)を切って、大怪我をしたことがありました。血が吹き出ていて、一刻を争う大怪我でしたから、直ぐに救急車を呼んで運び出しました。ところが、その怪我人は放射能まみれだったのです。でも、電力会社もあわてていたので、防護服を脱がせたり、体を洗ったりする除洗をしなかった。救急隊員にも放射能汚染の知識が全くなかったので、その怪我人は放射能の除洗をしないままに、病院に運ばれてしまったんです。だから、その怪我人を触った救急隊員が汚染される、救急車も汚染される、医者も看護婦さんも、その看護婦さんが触った他の患者さんも汚染される、その患者さんが外へ出て、また汚染が広がるというふうに、町中がパニックになるほどの大変な事態になってしまいました。みんなが大怪我をして出血のひどい人を何とか助けたいと思って必死だっただけで、放射能は全く見えませんから、その人が放射能で汚染されていることなんか、だれも気が付かなかったんですよ。

 一人でもこんなに大変なんです。それが仮に大事故が起きて大勢の住民が放射能で汚染された時、一体どうなるのでしょうか。想像できますか。人ごとではないのです。この国の人、みんなの問題です。

びっくりした美浜原発細管破断事故!

 皆さんが知らないのか、無関心なのか、日本の原発はびっくりするような大事故を度々起こしています。スリーマイル島とかチェルノブイリに匹敵する大事故です。一九八九年に、東京電力の福島第二原発で再循環ポンプがバラバラになった大事故も、世界で初めての事故でした。

 そして、一九九一年二月に、関西電力の美浜原発で細管が破断した事故は、放射能を直接に大気中や海へ大量に放出した大事故でした。

 チェルノブイリの事故の時には、私はあまり驚かなかったんですよ。原発を造っていて、そういう事故が必ず起こると分かっていましたから。だから、ああ、たまたまチェルノブイリで起きたと、たまたま日本ではなかったと思ったんです。しかし、美浜の事故の時はもうびっくりして、足がガクガクふるえて椅子から立ち上がれない程でした。

 この事故はECCS(緊急炉心冷却装置)を手動で動かして原発を止めたという意味で、重大な事故だったんです。ECCSというのは、原発の安全を守るための最後の砦に当たります。これが効かなかったらお終りです。だから、ECCSを動かした美浜の事故というのは、一億数千万人の人を乗せたバスが高速道路を一〇〇キロのスピードで走っているのに、ブレーキもきかない、サイドブレーキもきかない、崖にぶつけてやっと止めたというような大事故だったんです。

 原子炉の中の放射能を含んだ水が海へ流れ出て、炉が空焚きになる寸前だったのです。日本が誇る多重防護の安全弁が次々と効かなくて、あと〇・七秒でチェルノブイリになるところだった。それも、土曜日だったのですが、たまたまベテランの職員が来ていて、自動停止するはずが停止しなくて、その人がとっさの判断で手動で止めて、世界を巻き込むような大事故に至らなかったのです。日本中の人が、いや世界中の人が本当に運がよかったのですよ。

 この事故は、二ミリくらいの細い配管についている触れ止め金具、何千本もある細管が振動で触れ合わないようにしてある金具が設計通りに入っていなかったのが原因でした。施工ミスです。そのことが二十年近い何回もの定検でも見つからなかったんですから、定検のいい加減さがばれた事故でもあった。入らなければ切って捨てる、合わなければ引っ張るという、設計者がまさかと思うようなことが、現場では当たり前に行われているということが分かった事故でもあったんです。

もんじゅの大事故

 去年(一九九五年)の十二月八日に、福井県の敦賀にある動燃(動力炉・核燃料開発事業団)のもんじゅでナトリウム漏れの大事故を起こしました。もんじゅの事故はこれが初めてではなく、それまでにも度々事故を起こしていて、私は建設中に六回も呼ばれて行きました。というのは、所長とか監督とか職人とか、元の部下だった人たちがもんじゅの担当もしているので、何か困ったことがあると私を呼ぶんですね。もう会社を辞めていましたが、原発だけは事故が起きたら取り返しがつきませんから、放っては置けないので行くのです。

 ある時、電話がかかって、「配管がどうしても合わないから来てくれ」という。行って見ますと、特別に作った配管も既製品の配管もすべて図面どおり、寸法通りになっている。でも、合わない。どうして合わないのか、いろいろ考えましたが、なかなか分からなかった。一晩考えてようやく分かりました。もんじゅは、日立、東芝、三菱、富士電機などの寄せ集めのメーカーで造ったもので、それぞれの会社の設計基準が違っていたのです。

 図面を引くときに、私が居た日立は〇・五mm切り捨て、東芝と三菱は〇・五mm切上げ、日本原研は〇・五mm切下げなんです。たった〇・五mmですが、百カ所も集まると大変な違いになるのです。だから、数字も線も合っているのに合わなかったのですね。

 これではダメだということで、みんな作り直させました。何しろ国の威信がかかっていますから、お金は掛けるんです。

 どうしてそういうことになるかというと、それぞれのノウ・ハウ、企業秘密ということがあって、全体で話し合いをして、この〇・五mmについて、切り上げるか、切り下げるか、どちらかに統一しようというような話し合いをしていなかったのです。今回のもんじゅの事故の原因となった温度センサーにしても、メーカー同士での話し合いもされていなかったんではないでしょうか。

 どんなプラントの配管にも、あのような温度計がついていますが、私はあんなに長いのは見たことがありません。おそらく施工した時に危ないと分かっていた人がいたはずなんですね。でも、よその会社のことだからほっとけばいい、自分の会社の責任ではないと。

 動燃自体が電力会社からの出向で出来た寄せ集めですが、メーカーも寄せ集めなんです。これでは事故は起こるべくして起こる、事故が起きないほうが不思議なんで、起こって当たり前なんです。

 しかし、こんな重大事故でも、国は「事故」と言いません。美浜原発の大事故の時と同じように「事象があった」と言っていました。私は事故の後、直ぐに福井県の議会から呼ばれて行きました。あそこには十五基も原発がありますが、誘致したのは自民党の議員さんなんですね。だから、私はそういう人に何時も、「事故が起きたらあなた方のせいだよ、反対していた人には責任はないよ」と言ってきました。この度、その議員さんたちに呼ばれたのです。「今回は腹を据えて動燃とケンカする、どうしたらよいか教えてほしい」と相談を受けたのです。

 それで、私がまず最初に言ったことは、「これは事故なんです、事故。事象というような言葉に誤魔化されちゃあだめだよ」と言いました。県議会で動燃が「今回の事象は……」と説明を始めたら、「事故だろ! 事故!」と議員が叫んでいたのが、テレビで写っていましたが、あれも、黙っていたら、軽い「事象」ということにされていたんです。地元の人たちだけではなく、私たちも、向こうの言う「事象」というような軽い言葉に誤魔化されてはいけないんです。

 普通の人にとって、「事故」というのと「事象」というのとでは、とらえ方がまったく違います。この国が事故を事象などと言い換えるような姑息なことをしているので、日本人には原発の事故の危機感がほとんどないのです。

日本のプルトニウムがフランスの核兵器に?

 もんじゅに使われているプルトニウムは、日本がフランスに再処理を依頼して抽出したものです。再処理というのは、原発で燃やしてしまったウラン燃料の中に出来たプルトニウムを取り出すことですが、プルトニウムはそういうふうに人工的にしか作れないものです。

 そのプルトニウムがもんじゅには約一・四トンも使われています。長崎の原爆は約八キロだったそうですが、一体、もんじゅのプルトニウムでどのくらいの原爆ができますか。それに、どんなに微量でも肺ガンを起こす猛毒物質です。半減期が二万四千年もあるので、永久に放射能を出し続けます。だから、その名前がプルートー、地獄の王という名前からつけられたように、プルトニウムはこの世で一番危険なものといわれるわけですよ。

 しかし、日本のプルトニウムが去年(一九九五年)南太平洋でフランスが行った核実験に使われた可能性が大きいことを知っている人は、余りいません。フランスの再処理工場では、プルトニウムを作るのに核兵器用も原発用も区別がないのです。だから、日本のプルトニウムが、この時の核実験に使われてしまったことはほとんど間違いありません。

 日本がこの核実験に反対をきっちり言えなかったのには、そういう理由があるからです。もし、日本政府が本気でフランスの核実験を止めさせたかったら、簡単だったのです。つまり、再処理の契約を止めればよかったんです。でも、それをしなかった。

 日本とフランスの貿易額で二番目に多いのは、この再処理のお金なんですよ。国民はそんなことも知らないで、いくら「核実験に反対、反対」といっても仕方がないんじゃないでしょうか。それに、唯一の被爆国といいながら、日本のプルトニウムがタヒチの人々を被爆させ、きれいな海を放射能で汚してしまったに違いありません。

 世界中が諦めたのに、日本だけはまだこんなもので電気を作ろうとしているんです。普通の原発で、ウランとプルトニウムを混ぜた燃料(MOX燃料)を燃やす、いわゆるプルサーマルをやろうとしています。しかし、これは非常に危険です。分かりやすくいうと、石油ストーブでガソリンを燃やすようなことなんです。原発の元々の設計がプルトニウムを燃すようになっていません。プルトニウムは核分裂の力がウランとはケタ違いに大きいんです。だから原爆の材料にしているわけですから。

 いくら資源がない国だからといっても、あまりに酷すぎるんじゃないでしょうか。早く原発を止めて、プルトニウムを使うなんてことも止めなければ、あちこちで被曝者が増えていくばかりです。

日本には途中でやめる勇気がない

 世界では原発の時代は終わりです。原発の先進国のアメリカでは、二月(一九九六年)に二〇一五年までに原発を半分にすると発表しました。それに、プルトニウムの研究も大統領命令で止めています。あんなに怖い物、研究さえ止めました。

 もんじゅのようにプルトニウムを使う原発、高速増殖炉も、アメリカはもちろんイギリスもドイツも止めました。ドイツは出来上がったのを止めて、リゾートパークにしてしまいました。世界の国がプルトニウムで発電するのは不可能だと分かって止めたんです。日本政府も今度のもんじゅの事故で「失敗した」と思っているでしょう。でも、まだ止めない。これからもやると言っています。

 どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、この国が途中で止める勇気がないというのは非常に怖いです。みなさんもそんな例は山ほどご存じでしょう。

 とにかく日本の原子力政策はいい加減なのです。日本は原発を始める時から、後のことは何にも考えていなかった。その内に何とかなるだろうと。そんないい加減なことでやってきたんです。そうやって何十年もたった。でも、廃棄物一つのことさえ、どうにもできないんです。

 もう一つ、大変なことは、いままでは大学に原子力工学科があって、それなりに学生がいましたが、今は若い人たちが原子力から離れてしまい、東大をはじめほとんどの大学からなくなってしまいました。机の上で研究する大学生さえいなくなったのです。

 また、日立と東芝にある原子力部門の人も三分の一に減って、コ・ジェネレーション(電気とお湯を同時に作る効率のよい発電設備)のガス・タービンの方へ行きました。メーカーでさえ、原子力はもう終わりだと思っているのです。

 原子力局長をやっていた島村武久さんという人が退官して、『原子力談義』という本で、「日本政府がやっているのは、ただのつじつま合わせに過ぎない、電気が足りないのでも何でもない。あまりに無計画にウランとかプルトニウムを持ちすぎてしまったことが原因です。はっきりノーといわないから持たされてしまったのです。そして日本はそれらで核兵器を作るんじゃないかと世界の国々から見られる、その疑惑を否定するために核の平和利用、つまり、原発をもっともっと造ろうということになるのです」と書いていますが、これもこの国の姿なんです。

廃炉も解体も出来ない原発

 一九六六年に、日本で初めてイギリスから輸入した十六万キロワットの営業用原子炉が茨城県の東海村で稼動しました。その後はアメリカから輸入した原発で、途中で自前で造るようになりましたが、今では、この狭い日本に一三五万キロワットというような巨大な原発を含めて五一の原発が運転されています。

 具体的な廃炉・解体や廃棄物のことなど考えないままに動かし始めた原発ですが、厚い鉄でできた原子炉も大量の放射能をあびるとボロボロになるんです。だから、最初、耐用年数は十年だと言っていて、十年で廃炉、解体する予定でいました。しかし、一九八一年に十年たった東京電力の福島原発の一号機で、当初考えていたような廃炉・解体が全然出来ないことが分かりました。このことは国会でも原子炉は核反応に耐えられないと、問題になりました。

 この時、私も加わってこの原子炉の廃炉、解体についてどうするか、毎日のように、ああでもない、こうでもないと検討をしたのですが、放射能だらけの原発を無理やりに廃炉、解体しようとしても、造るときの何倍ものお金がかかることや、どうしても大量の被曝が避けられないことなど、どうしようもないことが分かったのです。原子炉のすぐ下の方では、決められた線量を守ろうとすると、たった十数秒くらいしかいられないんですから。

 机の上では、何でもできますが、実際には人の手でやらなければならないのですから、とんでもない被曝を伴うわけです。ですから、放射能がゼロにならないと、何にもできないのです。放射能がある限り廃炉、解体は不可能なのです。人間にできなければロボットでという人もいます。でも、研究はしていますが、ロボットが放射能で狂ってしまって使えないのです。

 結局、福島の原発では、廃炉にすることができないというので、原発を売り込んだアメリカのメーカーが自分の国から作業者を送り込み、日本では到底考えられない程の大量の被曝をさせて、原子炉の修理をしたのです。今でもその原発は動いています。

 最初に耐用年数が十年といわれていた原発が、もう三〇年近く動いています。そんな原発が十一もある。くたびれてヨタヨタになっても動かし続けていて、私は心配でたまりません。

 また、神奈川県の川崎にある武蔵工大の原子炉はたった一〇〇キロワットの研究炉ですが、これも放射能漏れを起こして止まっています。机上の計算では、修理に二〇億円、廃炉にするには六〇億円もかかるそうですが、大学の年間予算に相当するお金をかけても廃炉にはできないのです。まず停止して放射能がなくなるまで管理するしかないのです。

 それが一〇〇万キロワットというような大きな原発ですと、本当にどうしようもありません。

「閉鎖」して、監視・管理

 なぜ、原発は廃炉や解体ができないのでしょうか。それは、原発は水と蒸気で運転されているものなので、運転を止めてそのままに放置しておくと、すぐサビが来てボロボロになって、穴が開いて放射能が漏れてくるからです。原発は核燃料を入れて一回でも運転すると、放射能だらけになって、止めたままにしておくことも、廃炉、解体することもできないものになってしまうのです。

 先進各国で、閉鎖した原発は数多くあります。廃炉、解体ができないので、みんな「閉鎖」なんです。閉鎖とは発電を止めて、核燃料を取り出しておくことですが、ここからが大変です。

 放射能まみれになってしまった原発は、発電している時と同じように、水を入れて動かし続けなければなりません。水の圧力で配管が薄くなったり、部品の具合が悪くなったりしますから、定検もしてそういう所の補修をし、放射能が外に漏れださないようにしなければなりません。放射能が無くなるまで、発電しているときと同じように監視し、管理をし続けなければならないのです。 

 今、運転中が五一、建設中が三、全部で五四の原発が日本列島を取り巻いています。これ以上運転を続けると、余りにも危険な原発もいくつかあります。この他に大学や会社の研究用の原子炉もありますから、日本には今、小さいのは一〇〇キロワット、大きいのは一三五万キロワット、大小合わせて七六もの原子炉があることになります。

 しかし、日本の電力会社が、電気を作らない、金儲けにならない閉鎖した原発を本気で監視し続けるか大変疑問です。それなのに、さらに、新規立地や増設を行おうとしています。その中には、東海地震のことで心配な浜岡に五機目の増設をしようとしていたり、福島ではサッカー場と引換えにした増設もあります。新設では新潟の巻町や三重の芦浜、山口の上関、石川の珠洲、青森の大間や東通などいくつもあります。それで、二〇一〇年には七〇~八〇基にしようと。実際、言葉は悪いですが、この国は狂っているとしか思えません。

 これから先、必ずやってくる原発の閉鎖、これは本当に大変深刻な問題です。近い将来、閉鎖された原発が日本国中いたるところに出現する。これは不安というより、不気味です。ゾーとするのは、私だけでしょうか。

どうしようもない放射性廃棄物

 それから、原発を運転すると必ず出る核のゴミ、毎日、出ています。低レベル放射性廃棄物、名前は低レベルですが、中にはこのドラム缶の側に五時間もいたら、致死量の被曝をするようなものもあります。そんなものが全国の原発で約八〇万本以上溜まっています。

 日本が原発を始めてから一九六九年までは、どこの原発でも核のゴミはドラム缶に詰めて、近くの海に捨てていました。その頃はそれが当たり前だったのです。私が茨城県の東海原発にいた時、業者はドラム缶をトラックで運んでから、船に乗せて、千葉の沖に捨てに行っていました。

 しかし、私が原発はちょっとおかしいぞと思ったのは、このことからでした。海に捨てたドラム缶は一年も経つと腐ってしまうのに、中の放射性のゴミはどうなるのだろうか、魚はどうなるのだろうかと思ったのがはじめでした。

 現在は原発のゴミは、青森の六ケ所村へ持って行っています。全部で三百万本のドラム缶をこれから三百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が三百年間も続くのかどうか。どうなりますか。

 もう一つの高レベル廃棄物、これは使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出した後に残った放射性廃棄物です。日本はイギリスとフランスの会社に再処理を頼んでいます。去年(一九九五年)フランスから、二八本の高レベル廃棄物として返ってきました。これはどろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れたものです。この容器の側に二分間いると死んでしまうほどの放射線を出すそうですが、これを一時的に青森県の六ケ所村に置いて、三〇年から五〇年間くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定だといっていますが、予定地は全く決まっていません。余所の国でも計画だけはあっても、実際にこの高レベル廃棄物を処分した国はありません。みんな困っています。

 原発自体についても、国は止めてから五年か十年間、密閉管理してから、粉々にくだいてドラム缶に入れて、原発の敷地内に埋めるなどとのんきなことを言っていますが、それでも一基で数万トンくらいの放射能まみれの廃材が出るんですよ。生活のゴミでさえ、捨てる所がないのに、一体どうしようというんでしょうか。とにかく日本中が核のゴミだらけになる事は目に見えています。早くなんとかしないといけないんじゃないでしょうか。それには一日も早く、原発を止めるしかなんですよ。

 私が五年程前に、北海道で話をしていた時、「放射能のゴミを五〇年、三百年監視続ける」と言ったら、中学生の女の子が、手を挙げて、「お聞きしていいですか。今、廃棄物を五〇年、三百年監視するといいましたが、今の大人がするんですか? そうじゃないでしょう。次の私たちの世代、また、その次の世代がするんじゃないんですか。だけど、私たちはいやだ」と叫ぶように言いました。この子に返事の出来る大人はいますか。

 それに、五〇年とか三百年とかいうと、それだけ経てばいいんだというふうに聞こえますが、そうじゃありません。原発が動いている限り、終わりのない永遠の五〇年であり、三百年だということです。

住民の被曝と恐ろしい差別

 日本の原発は今までは放射能を一切出していませんと、何十年もウソをついてきた。でもそういうウソがつけなくなったのです。

 原発にある高い排気塔からは、放射能が出ています。出ているんではなくて、出しているんですが、二四時間放射能を出していますから、その周辺に住んでいる人たちは、一日中、放射能をあびて被曝しているのです。

ある女性から手紙が来ました。二三歳です。便箋に涙の跡がにじんでいました。「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。白血病の孫の顔はふびんで見たくない。だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。私が何か悪いことしましたか」と書いてありました。この娘さんに何の罪がありますか。こういう話が方々で起きています。

 この話は原発現地の話ではない、東京で起きた話なんですよ、東京で。皆さんは、原発で働いていた男性と自分の娘とか、この女性のように、原発の近くで育った娘さんと自分の息子とかの結婚を心から喜べますか。若い人も、そういう人と恋愛するかも知れないですから、まったく人ごとではないんです。 こういう差別の話は、言えば差別になる。でも言わなければ分からないことなんです。原発に反対している人も、原発は事故や故障が怖いだけではない、こういうことが起きるから原発はいやなんだと言って欲しいと思います。原発は事故だけではなしに、人の心まで壊しているのですから。

私、子ども生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。

 最後に、私自身が大変ショックを受けた話ですが、北海道の泊原発の隣の共和町で、教職員組合主催の講演をしていた時のお話をします。どこへ行っても、必ずこのお話はしています。あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが、この話だけはぜひ覚えておいてください。

その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くらいで、およそ三百人くらいの人が来ていました。その中には中学生や高校生もいました。原発は今の大人の問題ではない、私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたのです。

 話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。 

 「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。

 「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」って、泣きながら訴えました。

 私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない」って。

 担任の先生たちも、今の生徒たちがそういう悩みを抱えていることを少しも知らなかったそうです。

 これは決して、原子力防災の八キロとか十キロの問題ではない、五十キロ、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです。そういう悩みを今の中学生、高校生が持っていることを絶えず知っていてほしいのです。

原発がある限り、安心できない

 みなさんには、ここまでのことから、原発がどんなものか分かってもらえたと思います。

 チェルノブイリで原発の大事故が起きて、原発は怖いなーと思った人も多かったと思います。でも、「原発が止まったら、電気が無くなって困る」と、特に都会の人は原発から遠いですから、少々怖くても仕方がないと、そう考えている人は多いんじゃないでしょうか。

 でも、それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません。安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから、原発は絶対に必要なんですよ」と、大金をかけて宣伝をしている結果なんです。もんじゅの事故のように、本当のことはずーっと隠しています。

 原発は確かに電気を作っています。しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。それに、原発を造るときから、地域の人達は賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たら出来たで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです。

 みなさんは、原発が事故を起こしたら怖いのは知っている。だったら、事故さえ起こさなければいいのか。平和利用なのかと。そうじゃないでしょう。私のような話、働く人が被曝して死んでいったり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではないんです。それに、安全なことと安心だということは違うんです。原発がある限り安心できないのですから。

 それから、今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油がいるのです。それは、今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ。それに、その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。

 そんな原発が、どうして平和利用だなんて言えますか。だから、私は何度も言いますが、原発は絶対に核の平和利用ではありません。

 だから、私はお願いしたい。朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりと見てほしいと。果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。

 ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っています。

 原発がある限り、世界に本当の平和はこないのですから。


優しい地球 残そう子どもたちに
筆者「平井憲夫さん」について:

1997年1月逝去。
1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。
e-kochi

原子力発電がなくても暮らせる社会をつくる国民会議
http://genpatsu_shinsai.tripod.co.jp/
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Posted by マロンアルファー at 12:45Comments(0)こども

2011年03月16日

生駒家縁血屋敷井戸跡義捐金茶会のご案内

過日、復元が完了されました生駒家縁「血屋敷井戸」において、東北地方太平洋沖地震で被災された方々を応援するため、義捐金茶会を、下記の要領にて開催いたします。

ご覧になった方のお心寄よせをどうぞよろしくお願いします。


                             記


日 時: 2011年3月20日(日)午前10時~午後4時

場 所: 生駒家縁血屋敷井戸(香川県高松市内町2-1、ベーグルカフェ東隣)

義捐金: 500円

茶会内容: ポット・茶箱での点て出し&井戸解説者 築港万次郎氏による自説披露

募金箱: お茶とは別に、名簿と募金箱を設置します。(名簿と金額、お名前公表の諾否等について記入簿をつくります)

主 催: 生駒家縁血屋敷井戸茶会実行委員会

連絡先: 090-4336-3104(事務局・栗生)


集まった義捐金と募金は、3月21日に全額、四国新聞社を通じて日本赤十字社へ寄付いたします。

これらについて、同日夜、当ブログ「マロンの冒険」 にて報告・公表いたします。

当日、手伝ってくれる人も募集してます。
(お茶点てる人・お茶とお菓子をセットする人・茶碗を洗う人・お金を管理する人・名簿を管理する人・水を買いに行く人 などなど)
現在人員:5名

どうかご協力のほど、よろしくお願いします。
以上


すでに拡散協力いただいているウェブ:
るいままとしての365日 






  


Posted by マロンアルファー at 08:48Comments(0)告知モノ

2011年02月25日

明日のフォーラムについて 岩上安身チャンネルでの中継予告

http://kappadoujou.ashita-sanuki.jp/e378422.html

で、ご案内させていただいたフォーラムの様子を、今回、Ustream で生中継することになりました。

中継公開予定のサイトは、こちらです。
http://www.ustream.tv/channel/iwakamiyasumi6

また、ハッシュタグ # iwakamiyasumi6 と、# siforum を使って、twitter と連動させて、ご興味があっても当日参加できない方の意見を集約する努力をしてみることになりました。

ご視聴、お気軽なご意見投稿、お待ちしています。

ゲスト近影 佐久間智子先生



  


Posted by マロンアルファー at 17:06Comments(1)告知モノ

2010年12月29日

何が起こっているのか、あなた知ってるの?

今年も今日を入れてあと3日となりました。

毎年年末年始は、我慢と修行の期間ですが、今年も例外ではありません。
それに加えて、帰省中の息子の宿題を終わらせるという難行が加わっているので、修行係数が最高値を示しております。

そんな中での息抜きのひとつが、満身創痍で戦っている小沢一郎さんの情報に触れることです。

いまや、大メディア、菅内閣、霞ヶ関の人達、戦争を起こしたくてたまらないアメリカの一部の人達、検察組織の人達などの複合体を相手に、国民を守るために戦っている小沢さんのことを考えると、勇気と元気が出てきます。

今年は、テレビから垂れ流される情報を疑い、ネットや著書で自分で探して真実を見出そうとする人が増え、しかも、ネットで意見を言うだけではなく、自ら行動を起こし、対話集会(フォーラム)や、静かなるデモなどにつなげる人が生まれました。

先日行われた岩上安身さんの小沢一郎インタビューや、森ゆう子さんのツイートなどから、小沢一郎さん自身も、編集されたりカットされることなく真実を発信する傾向が強いネットメディアの効能を認識し、後半からは、動画に出演されたりしています。

来年は、もっともっと小沢さんの生の姿や声を直接国民が受け取る機会が増え、いろいろな意味で開かれた政治が行われることを願ってやみません。


小沢一郎を必死で守り応援する平野貞夫さん率いる日本一新の会から本日届いたメルマガを転載してご紹介します。(長いです)


来年もよろしくお願いします。


※ タイトルは、近く、構想四国で開催したいと企画中のフォーラムのタイトルです。

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(激動の平成22年を終えて)

6月17日に発刊した「日本一新の会」のメルマガ運動は、早いもので半年となり激動の平成22年が終わろうとしている。
この会に参加し協賛していただいた方々に、心から感謝したい。
お陰さまで大きな成果を上げることができた。

『週刊朝日』の新春合併号で、「小沢一郎“すべてに答える”茂木健一郎が迫る」という特集があった。茂木氏といえば著名な脳学者、その茂木氏が注目すべき発言をしている。「九月の代表選で、新聞・テレビの伝統的メディアが相変わらず「政治とカネ」問題を批判する中、ネットの世界では、ちょっとした「小沢ブーム」が起きていたんですよ。これは私にとって顕著な出来事だった」。


日本一新の会が発信したメルマガの活動を評価したものだと思う。維持会員や、アドレス登録の皆さんのご助力によるもので、この機会に、改めて敬意を表したい。

日本の政治がこれほど劣化したことは、明治以降で最悪といえる。私自身、日本にとって政権交代こそが民主政治を定着させる最大の課題と確信していた。衆議院事務局33年、参議院議員12年、そして政治評論を6年と、それ一筋に活動して、今年で後期高齢者となった。歴史的政権交代が実現したものの、菅・仙谷・前原・岡田政権となって国家の機能さえ失う政治運営といえる。

これでは私も死ぬに死にきれない。

これを12月25日の夕刻、小沢さんに話したところ、「お天道さんが見ているよ」とのこと。さすがに世の中を達観している。

これで、来たる年には十分な闘いができると確信した。そこで私は昨年の政権交代から今年の菅政権の混乱について、「天道論」で分析して伝えた。

「おてんとうさんは、日本の政治を壮大な構想で仕分けているんですな。昨年は自民党を仕分けて、政権の座から降ろした。今年は民主党が仕分けられている。この仕分けは来たる年に答えが出る。政権交代の歴史的意義の花が咲くことを信じましょう」

(菅内閣に協力するメディアの実体)

12月20日、小沢さんの政倫審出席をめぐって、「菅首相・小沢会談」と同時進行になったが、テレビ朝日の「ワイドスクランブル」で、私は田原総一郎氏と激論していた。「小沢問題は、社会心理的な暴力装置となったマスメディアが、政治や検察権力と結びつき、政界から“小沢排除”を企んだことによる」という趣旨の発言をすると、田原氏が猛然と反発してきた。テレビの生放送で、公然とメディア批判をしたのは初めてだったが、再びテレビ出演の依頼はないだろうと思っていた。

そんな話を友人のジャーナリストにしたところに、まことに不可解な情報が入ってきたが、それは、巨大メディアの来年の報道方針のことである。これが現代のメディアの実体かと思うと、私たちの闘いは容易なことではない。

朝日新聞からテレビ朝日に非公式に伝えられたといわれる話だが、これからも小沢氏に関しては、悪いイメージを国民に持たせるような報道を継続するとのこと。理由は、来年、菅内閣は「納税のための国民総背番号制」を導入することになる。そのための法案を国会に提出して審議が行われる。当然、国民の反発は厳しく、巨額の広報費を使って賛成の世論づくりをすることになる。

小泉内閣の時の裁判員制度で、それをやり批判されたことだ。それ以上に菅内閣はメディアを悪用することになるだろう。聞くところによると、購読者・広告費減少で経営に苦しむ巨大メディアは、この巨額な税金をめぐって実質的な談合が行われているとのこと。菅官邸とメディアは阿吽の呼吸で、政府広報費という税金を配分する代わりに、「小沢叩き」を強化し続ける方針のようだ。また、こんな話もある。「上からの指示で小沢叩きということではまずい。現場が自主的にやるようにしてくれ。札付きの平野(貞夫)なんかを、ガス抜きに時々呼んでもよいが、“こんな人柄の良い人”が小沢支持かと視聴者に感じさせる人物は呼ぶな」という話が交わされているようだ。そういえば、27日夕刻、自宅に帰るとテレビタックルから、年明けに録画出演してくれとファックスが送られてきた。

既に新しい「小沢叩きプロジェクト」は始まっている。26日のテレビ朝日の「フロントライン」では、反小沢メディアの主軸・後藤謙次氏が聞き役となって、仙谷官房長官にインタビューを行い、長時間にわたって小沢叩きを行った。問責決議がなされている官房長官をのうのうとテレビに出すことも問題だ。

後藤氏は共同通信の幹部で、竹下登に可愛がられ、その手先として、平成7年に結成された「三宝会」という、政・財・マスコミの秘密結社の主役であった。55年体制の発想から抜け切れないジャーナリストで、話を聞いていると竹下首相の小沢に対する怨念をぶつけている感じだった。それとTBSの「時事放談・新春特別番組」では、武村正義元官房長官と、仙谷現官房長官の対談とのこと。二人とも日本を亡国に導く権力亡者で、菅首相とともに、ソ連のスターリン派のようなものだ。忘れられているかも知れないが、武村氏は細川連立政権を潰した張本人で、米国のクリントン政権から「日本の政権の中心に北朝鮮のエージェントがいる」といわれた人物である。



(「検察審査会問題研究会」の報告)

12月24日(金)、憲政記念館で行われた「検察審査会問題研究会」は、森ゆう子参議院議員と、落合洋司弁護士を講師に迎え、約50名のそれぞれのグループの代表が参加した熱心な勉強会であった。研究会で採択された「声明文」や、3人の弁護士・検事職に宛てた「公開質問状」は発信済みなので省略するが、森ゆう子議員が発言した重要な情報を報告しておく。

1、検察審査会の審査員は「公正なくじ引き」で選ばれる法令になっているが、この「くじ引きソフト」は恣意的に審査員を選べることが実験で証明された。(昔の丁半賭博で床下から長針でサイコロをうごかしていたようなこと)。従って、小沢氏の議決を行った審査員が公正に選ばれたのか、疑問がある。

2、検察審査会の開催情況など、組織として当然のことが、まったく情報開示されておらず、幽霊審査会といえる。予算措置についても不可解なところが多く、現状では予算を計上すべきではない。

3、検察審査会は三権分立のどこに属するのか、所轄大臣はいるのか、起訴議決2回で強制起訴という行政権を行使することになっているが、行政機関としての法律上の位置づけはない。従って憲法違反の存在である。

4、東京第五検察審査会の小沢氏についての2度目の審査や起訴議決が適正かつ合法的に行われたのか不可解な点が多く、情報を開示すべきである。例えば、9月23日か24日かに、特捜検事が第五検察審査会に呼ばれ説明を行っているという確かな情報がある。何のための説明か。9月14日に2度目の起訴議決したことになっているが、検察からの説明はあったのか。起訴議決が適法に行われていない可能性があり、解明すべきである。

5、最高裁が所管する予算のうち、コンピューター・ソフトに関係する入札や納入の状況にきわめて問題が多く、裏金づくりや天下りに利用している可能性がある。平成23年度予算審議で厳しく調査する必要がある。

以上は、森ゆう子議員のホームページに、諸資料とともに掲載されているので参照されたい。


(再び「小沢氏の国会招致」問題について)

12月27日(月)、午後2時から開かれた民主党役員会に菅首相が出席した。注目されたのは、「政治とカネ」について、菅首相や岡田幹事長の「自発的に政治倫理審査会に出て説明すべきである」と強要することに小沢氏が応じないことについて、役員会として“出席説明することを議決する”という、わけのわからないことが協議の主要な課題というから笑い事だ。

菅首相や岡田幹事長は、野党が国会審議に協力しないこと、各種の選挙で民主党が惨敗を続けている原因は、小沢氏の「政治とカネ」の問題にあると公言している。それでは、12月26日の西東京市議選挙の惨敗をどう思っているだろうか。菅首相のおひざ元のこと、まさか小沢氏の「政治とカネ」を理由にするわけにはいくまい。そこまでいうなら「政治とカネ」のどの部分を説明しろというのか、具体的に示すべきだ。


平成6年の新生党解党にともない、残った資金を「改革フォーラム21」に移したが、その中に巨額な税金(立法事務費)が入っていたとの虚偽報道が繰り返された。テレビや新聞は「違法ではないが、政治資金制度の本旨に反する」と一斉に小沢叩きを行った。しかし、よく事実を調べてからにして欲しい。一円も税金は入っていないし、所定の手続を経た合法的な政治資金であり、繰り返しになるが、昨夏の政権交代を成し遂げた大きな要素でもあった。それでも、過剰に批判を繰り返しているメディアがあるが、法的措置をとることも考えたい。

小沢氏の国会招致について、役員会では輿石参議院会長が「次期通常国会までに決着させてはどうか」と、岡田幹事長に助け舟を出して年明けに先送りとなった。菅首相の眼の前の話だ。相当に頭に来たらしく、菅首相は夕方の記者会見で「国会招致を拒否し続けるなら、党の決定に従わないことになり、出処進退を含めて本人が考えて頂くしかない」と、自発的な離党を促した。どんな脳の構造をしているのか理解できない。

政治倫理審査会の「自発的出席説明」は、党とか国会の決定で行うものではない。議員の人権を守るものとして制度化したものだ。「自発的離党」を党代表が強要するとは、「結社の自由」という憲法の原理を踏みにじるものだ。

そのくらいのことがわかっていなければ、総理は勤まらないと思うが、これでは国の行き先は真っ暗だ。
官庁の御用納めで永田町が、年末の挨拶回り気分が流れる28日、小沢氏は突然に記者会見し、別紙の『挙党一致で「国民の生活が第一。」の政治を実現するために』という所見を発表した。

「私が政倫審に出席することにより予算審議が円滑にすすめられるということであれば、常会の冒頭にも出席し、説明したい」とのこと。さて、菅首相・岡田幹事長、どうしますか。それでも、「自発的離党」を強要するのですか。


最後に、日本一新の会・維持会員の皆さん、そして、さまざまな機会を通して、この「メルマガ・日本一新」を読んで頂いている無数の読者の皆さん、ご健勝にて新年を迎えられますようお祈り申し上げますとともに、「国民の生活が第一。」の実現に向けて、日本一新の会は皆さんと共にあることをお約束して、暮れのご挨拶といたします。


別紙 小沢氏記者会見ペーパー添付

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挙党一致で「国民の生活が第一。」の政治を実現するために

私はこれまで、菅代表及び岡田幹事長から、自発的に政治倫理審査会へ出席するよう要請を受けてまいりました。それに対し、私は、政治資金に関する問題はすでに具体的な司法手続きに入っており、三権分立や基本的人権の尊重という憲法上の原理原則からいえば、立法府の機関である政倫審に出席する合理的な理由はない、ただ、私が政倫審に出ることで、国会運営が円滑に進められ、あるいは、選挙戦においても国民の皆様の支持を取り戻すことができるということであれば、政倫審に出席することもやぶさかでないと、繰り返し表明してまいりました。

そうした中で、先般、民主党の最大の支持母体である連合から、挙党一致の体制で難局を乗り越えるよう、強い要請を受けました。

また、国民の皆様、同志の皆様にも、多大なご心配をおかけしていることを、大変申し訳なく思っております。これらのことを総合的に考え、私は政治家の判断として、来年の常会において、政倫審に自ら出席することを決意致しました。

具体的に申し上げます。

第一点目として、常会において私が政倫審に出席しなければ国会審議が開始されないという場合、すなわち、私が出席することにより、予算案の審議をはじめ、国会の審議が円滑に進められるということであれば、常会の冒頭にも出席し、説明したいと思います。

第二点目は、私が政倫審に出席するかどうかということが、国会審議を開始するための主たる条件ではないということであれば、国民の生活に最も関連の深い予算案の審議に全力で取り組み、その一日も早い成立を図らなければなりません。したがって、私はこの場合には、予算成立の後速やかに政倫審に出席したいと考えております。


平成22年12月28日
衆院議員 小沢一郎

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☆事務局より

平野出演番組

年明け1月7日(金)生放送
ラジオ日本(首都圏)
「マット安川のずばり勝負」
13:00~14:30

年明け1月10日 録画出演
テレビ朝日
21:00~
たけしのテレビタックル
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☆日本一新の会・熊本懇談会

期 日 平成23年1月16日(日)
時 刻 13:00~14:30(目途) 
会 場 本光寺 電話096-343-6914
(熊本市坪井4丁目10番29号)
(駐車場はありません)
幕末の志士、横井小楠は坪井町の出身です。
参 加 費 ¥500(資料・茶菓代)
当日会場で申し受けます。

出 席 者 平野貞夫代表
染谷正圀会員
大島楯臣事務局
事前申し込みは無用ですが、準備の都合もあり、
info@nipponissin.comまでご一報頂くとありがたいです。

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☆「日本一新の会」関西地区有志の会交流会

●主 催:「日本一新の会」関西地区有志 
代表世話人 森田 友企子

●日 時: 2011年1月23日(日)14:30~16:30
受付開始:14:00~
●会 場:「レストラン マエストロ」
http://r.gnavi.co.jp/k015436/
大阪市中央区心斎橋2-5-15
「クロスホテル大阪3F」
電話:06-6213-8291
最寄り駅:地下鉄御堂筋線心斎橋駅4番
出口徒歩5分
●ゲスト:平野貞夫代表、 他関西地区「一新会」所属議員
も参加予定
●会 費 :6000円(税込み)
●申し込み方法:参加申し込みご希望の方は下記の方法で
手続きをおこなって下さい。
① ◆会費6000円を郵便振替にてお振込下さい。
口座記号番号:00970-0-183290
口座名称 : 森田 友企子(モリタ ユキコ)
◆郵便局以外の金融機関からお振込される場合は、
店 名:〇九九(ゼロキュウキュウ)店 
口座種別:当座 
口座番号:0183290
尚、お振込の際は、必ず会員番号とお名前(ハンドルネ―ムは不可)を記入して下さい。 
② 会費振込後、恐れ入りますが参加申し込みされた方のお名前とご住所をメールにて、下記のアドレスにお知らせ下さい。追って、申し込み番号をメールにて通知させていただきます。
(この申し込み番号は当日受付の際に必要になります)
アドレス:jaquie@live.jp
森田 友企子(関西地区代表世話人)宛 
尚、振込確認まで1週間ほどかかりますので、申し込み番号の通知を送らせていただくのは約2週間後になると思いますのでご了解下さい。 
●この交流会に関してのご質問やお問い合わせは、森田友企子関西地区代表世話人までご連絡下さい。
Mail:jaquie@live.jp 電話:090-4270-3660







  


Posted by マロンアルファー at 13:31Comments(0)

2010年10月14日

まちうたコンサートrev.3 @デックスガレリア 16日夕

子どもたちが自然に親を愛するように、人々が自然に自分の故郷(まち)を愛することができる時代がくるように、故郷の新しい歌をここに集めた。

2007年、2008年、2009年、2010年と毎年、高松をいろんなジャンルの音楽で綴った4枚のまちうたCDたち。当初の目標である4枚リリースを完成したことを記念して、この9月と10月にシンボルタワーでまちうたコンサートを開催することになりました。

9月4日は「恋」、9月25日は「人生」というテーマで、CD製作に関ったアーティストの渾身のステージを披露してもらいました。

そして、この土曜日(10月16日)のコンサートでまちうたコンサートはrev.4、最終ステージとなります。

テーマは、そのまんま「高松」。

トップバッターのHOCCOは、
オーディションで選ばれた10組の地元バンドのオリジナルで構成されたvol.2CD「ロックオブT-city」のトップバッター「THANK YOU」を収録、現在はレコード会社とレーベル契約をして東京で活動しているバンドです。

今年の春、常磐街のライブハウスDIMEのエイジさんに繋いでもらって、出演をプロポーズしたところ、「大好きな高松のためなら、喜んでやらせてもらいます」と、決して良い条件ではないにも関わらずその場で出演を快諾してくれた、めちゃくちゃ気持ちのいい3人の男子です。HOCCOの音楽は大音量でアップテンポながら、一曲一曲はとても美しいメロディラインで作られていて、9月25日のライブもたくさんのファンが参加してくれて盛り上がりました。今回もきっと車で、しかも高速でない道を10時間かけて帰ってきてくれる彼らに会えるのがとても楽しみです。


2番目のミレカンは、
菅涼子と上川美玲で構成される女子二人のユニット。「高松まちうたプロジェクト」とは1,3,4を通して作詞を引き受けた上村良介の書いた詞に、銀河鉄道で一緒に仕事をした菅涼子が曲をつけた「new world(海の上を駆け落ちする恋人の歌)」に一耳惚れした明石安哲氏がはじめた活動であり、要するにミレカンはこの騒動(?)の主なる火付け役の一人ともいえます。

たくさんの魅力的な高松人の協力を得て完成した「SKETCH OF T-CITY」は、高松市長も偶然入手されて以来、超お気に入りになったとブログで絶賛していただけたほどの出来のCDですが、なかでもnew worldは名曲中の名曲。この曲をBGMでかけていた「お客さんが来なくて潰れそうになっていたあるお店」が復活した逸話も生まれている不思議な力のある曲です。

この土曜日のコンサートでも、new world や、私が個人的に気に入っている「この先、海」(切ない別れ話のはじまる歌。昔F地区に実際に立っていた看板がタイトルになった)も、聴けそうです。

秋の夕暮れのカンリョウコの歌声に、できれば缶ワインなんかを片手に酔いしれていただきたいものです。

3番目に登場のSWJOは、
いわずと知れた高松を代表する偉大なジャズバンド。3枚目にリリースされた「JAZZ OF T-city」は、作詞の上村良介監督のミュージカルのために作られた挿入歌や主題歌からも生まれた名盤です。26日はフルバンドで演奏していただいた構成を、今回はデリシャスコンボで、「高松」を味わっていただきます。このコンサートがきっかけでご縁ができた、ピアノ担当兼マネージャーのクメエリコ氏の美貌も一緒にご堪能ください。

そしてラストステージは、アウローラ。
彼女達のことは、巻末の拙著でも紹介しましたがが、クラシックで高松に新しい風を興し続けている彼女たちがまちうたに関わることになったきっかけは、ちょっと面白いです。

vol.2のロックのオムニバスCDのためバンドを募集したオーディションのチラシの「バンド募集」の文字に激反応して、クラシックバンドで応募したことから始まりました。「今回は、ロックが対象なので。。・」と説明した明石さんが、アウローラリーダーの岸上美保のエネルギーを頼もしく好ましく感動して、vol.4はクラシックで、というときに、迷わず彼女たちに声をかけたところから始まります。

岸上さんのご主人で、声楽家・作曲家の七條功氏が作った哀しく美しいメロディに上村良介氏が詞をつけて、まちうたvol.4「メモリーオブT-city」は完成しました。

多くの方に、デックスガレリアに響く美しい美しい生声のハーモニーに会いにきていただきたいと思います。


rev.3となるまちうたコンサートは、10月16日(土)夕方4時からシンボルタワーのデックスガレリアで開催です。



★瀬戸内国際芸術祭連携事業 T-city まちうたコンサート

 日 時:2010年10月16日(土) 午後4時〜午後7時
 場 所:シンボルタワーデックスガレリア 1階ステージ
 テーマ:「高松」
 入場料:無料
 出演者: 16:00-16:30  HOCCO (from vol.2)
      16:50-17:20 mirekan (from vol.1)
      17:40-18:10  SWJO デリシャスコンボ(from vol.3)      
      18:30-19:00  アウローラ (from vol.4)





HOCCO


アウローラ


カンリョウコ@mirekan


SWJO



★巻末付録★
今年4月に香川経済研究所の「調査月報」に掲載していただいた、まちうたの記事です。

高松が好きだから高松を歌う。
~「まちうた」全4集、完全リリースご報告~

                      高松まちうたプロジェクト実行委員会 栗生みどり


Vol.1 始動
敬愛する師匠、明石氏(アーツカウンシル高松「act」副理事長)より「音楽CDを制作するんだけど、君一緒にやらない?」と話があったのは、2006年の春のことでした。高松のまちの魅力を余すことなく伝える「まちうた」を作りたい、というものでした。断る理由は見当たりませんでした。

そしてその年の7月よりプロジェクトは始まりました。vol.1はポップスで、作詞は上村良介(劇団銀河鉄道主宰)さん、作曲は菅涼子さん、歌と演奏は菅さん率いるユニットmirekanという充実したアーティスト群がすでに用意されていました。

資金繰りについては、プロデューサー明石さんのプレゼンにより、CD制作に対して高松市から助成金が支給されることになりました。助成金支給の条件は同額の自己資金を加えた全額を全体予算とするというものでしたので、この資金を捻出するために一口10,000円の趣意書を作りサポーター(協力者)を募ることになりました。

明石さんの連絡係としてvol.1ディレクターに任命された私は、自分にとってはとてつもなく大掛かりなこの企画を実行するために多くのブレーンが必要だと感じ、自分の知る限りの魅力的な人にかたっぱしから声をかけ、実行委員になっていただきました。
多いときは毎週、ACTの事務所にアーティストともに集い、正味約半年の歳月の流れの中果てしない紆余曲折喧々諤々の議論の末、世にも素敵な一枚めのCD, vol.1を2007年3月31日にリリースすることができました。


★作詞家のメッセージ

まちうた。のこと

上村 良介(四国学院大学教授・演出家)

高松は平凡な町である。長崎や横浜や金沢といった、歌になりやすい素材がそこここに転がっている、そんな町ではない。だがわたしにとってこの町は日本のどこより住み易い町だし、よほどのことがない限りほかに引っ越そうとは思っていない。それを愛というのなら、たしかにわたしはこの町を愛している。

たぶんそれはこの町に、わたしの思い出が散りばめられているからだ。初恋も初デートも、失恋も、みんなこの町で体験した。そんな思い出の数々がここに残っている。

じつはわたしは一度この町を捨てた人間である。若いころは大阪、京都、神戸、名古屋と渡り歩いて、東京では十年ほど暮らした。故あって高松に帰ってきたのだが、その後半年ほどして東京に出てみたら、よくもまあこんな人のあふれた町に住んでいたものだと、ほうほうの体で逃げ帰った。

結局、東京はテーマパークとしては面白いかもしれないが、住む町ではなかったということだ。

わたしにとってこの町はわたしの人生を包み込んでくれる町であり、母親のふところのようなものだ。安らぎがあり、穏やかさがあり、和みがある。そしてささやかながらもさまざまなドラマがある。

わたしはわたし自身の体験や友人たちのエピソードからこの詞を書いた。もちろんフィクションも含まれているが、それもまた高松という町のロケーションのなかから発想したものだ。

平凡な町にある平凡なエピソード、それがこの、まちうた。のわたしなりのコンセプトであった。だれかが「そんなこともあったっけ」と思ってくれればそれでわたしは満足だ。

まちうた。はわたしにとって体験だった。そこで得た結論は「この町ってけっこういい町なのかも」ということだった。一度この町を捨てたわたしがいうのだ。信じてもらいたい。


Vol.1作曲家のレコーディング終了報告メッセージ

嘉手納でのレコーディング ちょっとご報告。

カン リョウコ (歌手・作曲家)

「まちうた。」CDのレコーディングに行って参りました。正直、「ホントに疲れた~!」。

普通なら10日でする作業を、4日でやっちゃったんですもの。レコーディングが終了した次の日、全く、ホントに全く(1センチも!)体が動きませんでした。

でも、エンジニアさん達(W氏、K氏)のお陰で、本当に良いものが出来ましたよ。

たとえばW氏はレコーディング中のディレクションもしてくれたんですが、ミックスダウン後にも、「もっと良いものを!」と、一日かけて修正をしてくれていました。本当に、ありがたいです。

わたくしは、W氏が言われてた言葉、「高松の肌触り、におい、質感を出したい」を心に、高松を愛する心を目一杯つめて参りました。

そんなわたくし達、そしてサポーターの皆さんの愛の込もった「まちうた。」CD、是非、ご愛聴いただけたら、と思っております。

…レコーディング中、力みすぎて折れてしまったわたくしのパンプスのヒールの分も(笑)


★まちうたプロジェクト開始のきかけとなった曲(vol.1に収録)

New World     作詞 上村良介  作曲 菅 涼子

夜の海 舟を浮かべ
どこへ彼方へ
この街を捨ててゆく
ふたり遠くへ
ああ キミの髪に星のまたたき
ああ 波に揺られ流されてゆく
ゆく手にはNew World
夢にみるIsland
キミの手を握りしめて いま


かくして、まちうたvol.1はCD、レコ発ライブともに成功を博し、2007年春、実行委員会はめでたく解散したのでした。

★Vol.2 始動

そしてvol.2はロック!ディレクターには、四国のロックシーンをエネルギッシュに開拓・紹介しつづけるデュークの長田亞子さんが任命されました。

まちうたvol.2 ディレクターのプロジェクト開始に臨んでのメッセージ


ロック不毛の地なんて言わせない! 長田 亞子

「まちうた。~Sketch of T-city~」の成功を受け、「まちうた。~Rock Of 【T】City~」と名打った第2弾プロジェクトが始動したのはまだ少し肌寒い4月の上旬だった。最初にこの話をとあるカフェの一角で耳にした時は、私のような極楽蜻蛉が皆を牽引できるのか?と、その夜は一睡もできなかったのを思い出す。力不足を感じたのはもとより、今のライフスタイルの中で、このプロジェクトに費やす時間を見出す事は何よりも困難に思えたからだ。しかし、頭中には不思議な使命感と共に漠然とだが最終絵図が浮かんでいた、強い羨望と煌めきを持って。「実現できるだろうか?」が「実現させたい!」に変わってからは、盟友達と共にディスカッションを繰り返し、少しずつだが目標に近づいてきたと確信している。現在実行委員のメンバーは約30名。媒体関係のスペシャリストを募った他、派遣のプロから販売員、会社オーナーにニート、現役大学生まで実に多彩。そんな私達が作品に求めたのは大きく分けて3つ。【ロック(バンドサウンド)】【オムニバス(公募をする)】【10代~30代をターゲットに】。これは誰に何を言われようとも譲りたくなかった。高松あるいは香川県内に、どれくらいのロックキッズが生息し、活動しているのかを認知することで、彼らをも“まちうた。”に巻き込みたかった為。6月から8月末にかけて口コミや公募告知を行う中で集まったバンド数約50組。そこから厳正なる書類審査と面接、練習視察やライブ観覧などを経て、この度参加決定の10組が選出された。王道のギターロックから元気なパンク、野太いロカビリーに斬新なミクスチャー、グルーブロック、ポップスカ、ピアノエモに、放浪ロックなど正に十人十色。私は美しいダイヤの原石を1つ1つ光にかざす様に楽曲を聴きながら、10組が持つポテンシャルの高さに打ち震えたのである。そう、香川県をロック不毛の地だなんて誰が言ったものか?!けしからん!12月末には各バンドより正式なDEMO音源が集まる予定。同時進行でジャケットデザインも楽曲と同様に公募し、1月中旬にはレコーディング作業へ突入。まだまだ道程は長いが、完成作品が楽しみで心躍るのは私だけではないはずだ。


マチウタ。LIVE (開催報告) 長田亞子

去る4/20(日)、高松DIMEにて『マチウタ。LIVE』が大盛況の中、終了した。実動約1年、多くの敏腕スタッフと、才能溢れるアーティスト達に助けられ、この日を迎えられたことをまず感謝したい。「皆本当にお疲れ様、そしてありがとう」。それからこの場をお借りしてお世話になった媒体各所の皆様、ご協力に感謝致します。

思い返せば不安と期待に胸を躍らせ、ACT事務所に集合したあの日、こんな感動的な最終絵図を描けるとは誰も思わなかっただろう(笑)。正直始めた当初は右往左往の連続、土台作りからのスタートだった。ライブハウスに足繁く通い詰め、チラシを配り、告知をかけ、地元バンドと何度もコミュニケートした。何より私たちを突き動かしたのは、「高松もやればできる!」という熱い気持ち。その結果が「今」であり、「バンド、スタッフとの強い絆」なのである。手記を書きながらとても満たされた気持ちで数ヶ月前の事を振り返る。筋書きのないドラマとはまさしくことことだな。

「高松のロックの夜明け」、活動を振り返り思うことはこれに尽きる。10組10通りのロックと、街への想いが1枚のCDにこれでもか!と凝縮され、完成品を手にした時には鳥肌が立った。「ここまで具現化されるなんて」…私たちマチウタスタッフの想いが、アーティストを介し客席に届いた4/20、『マチウタ。』は皆のものへと昇華された。そう、ライブ会場には今まで見たこともない景色が広がっていたのだ。「高松いくぞー!」という【ラッシュ】のVo.リボンヌの声で歴史的瞬間が幕を開け、【Round Green Alga】にその熱が伝染する。【島津田四郎】が会場を大合唱に導けば【VIVASNUT】がそのグルーヴを更なる高みへ。凱旋ライブとなった【NATIVE×MUSTANG×FuLLNELSON】は、初の高松で鮮烈な印象を観客に残した。大トリ【asp~】は独特の世界観と色濃いステージングでロックの可能性を魅せてくれた。かつて私が味わったことのない濃厚な一体感。

日本で一番小さな県は、東京にだって負けてない!と確信した瞬間だった。

ただ、これがゴールではない。何故ならプロジェクトはまだ始まったばかりだし、このまま終わらす気等さらさらないので。今後の高松の音楽シーンにドンミシット!!
最後に、このプロジェクトに誘って頂いた明石氏に最大級の感謝と敬意を込め、心からお礼申し上げます。


Vol.3 JAZZ OF T-CITY始動

そして2008年春、まちうたプロジェクトは、いよいよvol.3「ジャズ・オブ・T-シティ」CD制作へと始動を始めました。作曲・編曲・演奏その他もろもろの担当は、高松きっての老舗ビッグバンドであるSWJO、ディレクターはSWJO育ての親とも言われているACT副理事長の松崎晃(act副理事長)さん、作詞は上村良介さん、という最初から鳴り物入りでの出航となりました。


SWJOバンドマスター 関元直登さんからの制作報告

「初めて」

SWJO バンドマスター 関元直登

皆様、こんにちは。
アーツカウンシル高松の松崎先生のお声がけを機に、結成18年を迎える私たちSWJOが、初めての本格的なCD製作をするチャンスに恵まれたのは、2008年春ごろのお話でした。

明石さんと、劇団「銀河鉄道」主宰の上村さんとを交えたお話の中から、「銀河鉄道」さんとの夢の共演を依頼され、その延長線として、高松市の音楽をジャズバージョンで制作しないかというものでした。
私たちにとって「初めて」という言葉は大変危険な言葉で、それには私たちが大好きな、夢とロマンを感じるからです。それと同時に、誰にとっても「初めて」というものは、期待と不安を併せ持つ冒険心にも似た不思議な感覚だと思います。

幼いころはそれこそ「初めて」経験することも多いでしょうが、大人になるにつれて、そういう不思議な感覚が減ってきてしまうのが人間の常です。

なので、大人になってからも「貴方のやりたいようにやっていいよ!」って言われてしまうと、なんか子供心をくすぐられてしまい、どうしようもなく暴走してしまいます。

まさにこのアルバム製作は、私たちの青春そのものと化し、その証が、この音になってしまいました(笑)。

今年5月30日(日)に「アリスイン高松」で行われました制作記念発表ライブには、大西市長様、島田理事長様はじめ約100名のお客様が来場され、アンコールの「見上げてごらん夜の☆を」で、ムードは最高潮となり、瀬戸内海にかかる夕陽と虹を見ながら、会場の皆様の心が一つになった、素晴らしいひと時を共有することができました。

“心意気”しかない私たちに全精力でご協力戴きました、郷土が生んだ世界的音楽家ビンゴさん、エンジニアの神成さん、マネージャの岡野さん、PAの太田さん、作詞・曲の銀次さん、菅さん、はじめ録音に携わったすべてのメンバーに心から感謝申し上げます。

「音楽を通して、世界の人たちと感動と笑顔を分かち合いたい」。収録曲「ホープ」のメッセージが、未来の高松市民の心に届きますよう願っています!


★Vol.4 クラシック「メモリー・オブ・T-シティ」

かくしてあっという間にvol.3のCDリリースと制作ライブも終了し、まちうたプロジェクト最終年を迎えたのでした。


まちうたvol.4に寄せて

  アウローラ  岸上 美保

木々の緑日ごとに色めく3月下旬、ACTディレクターの明石さんから一度会えないかというお電話を頂きました。数日後、何のことだか予想もつかず四国新聞社へと出向くと、明石さんから一言「まちうた企画知ってるよね?」と話を持ち出され「もちろんです。」と私が答えると「次回、AURORAでやってみる気はない?」とのこと。予想外のありがたいお話に心が躍りました。「もちろん、やりたいです。」そこから、まちうたプロジェクトVOL4は始まりました。

なぜ、私達にこの話がきたかというと、実はVOL2のロックバンドの一般募集の時に、バンドという文字だけを見てロックという企画を見ず早とちりした私は、イタリアのポップスの曲を歌ったデモテープを送ってしまいました。もちろんロックでもなんでもないAURORAの曲はすぐに没になったそうですが、その時送ったデモテープを明石さんがお持ちになっていて、VOL4はAURORAのクラッシック系でいこうということになったそうです。私の失敗が今回につながって、なんてラッキーなのでしょう。

さて、 AURORAって何者?と思われる方もおられるかと思います。まず、「オーロラ」と読まれた方、綴りは同じなのですが、イタリア語読みで「アウローラ」と言います。夜明け、始まりのような意味があり、2001年にクラッシックだけにこだわらず、ミュージカルやカンツォーネ、ポップスなど様々なジャンルの歌を歌い、皆さんに楽しんでもらえるようなグループを作りたいということで『ヴォーカル グループ アウローラ』を結成しました。それから8年、その頃まだ高校生だった生徒らや後輩など歌いたいメンバーが少しずつ集まり、昨年はイタリア公演まで実現致しました。そして今回は、企画に賛同したメンバー6名のヴォーカルとピアノ、ベース、ドラムで、『OPERA BAND AURORA 』を新たに結成しました。

10年前東京から帰って来た時は、東京の方が都会でいいと頑なに思っておりました。ですが、高松にいると徐々に生まれ育ったこの町の良さがわかってきて、なんて素敵な町なのだろうと感じてきたのです。

それから4年後、高松市をPRする高松ゆめ大使になり、東京を始め、全国に高松を紹介して回りました。そして今でも高松のいいところを皆に伝えたいという気持ちを持ち続けています。そんな中舞い込んできた『まちうたプロジェクト』、私にとって最高の出会いとなりました。是非とも皆の心に感じる最高のアルバムを作りたいと思っています。 木々の緑日ごとに色めく3月下旬、ACTディレクターの明石さんから一度会えないかというお電話を頂きました。数日後、何のことだか予想もつかず四国新聞社へと出向くと、明石さんから一言「まちうた企画知ってるよね?」と話を持ち出され「もちろんです。」と私が答えると「次回、AURORAでやってみる気はない?」とのこと。予想外のありがたいお話に心が躍りました。「もちろん、やりたいです。」そこから、まちうたプロジェクトVOL4は始まりました。


★Vol.4 完成!

2010年3月、まちうたシリーズの最後を飾るまちうたvol.4「 Memory of T-city」はを私の知る限り最も激しい喧々諤々を重ねた末、とうとう出来上がりました。今回は、曲制作、編曲、録音、マスタリング、ジャケットデザイン、制作発表コンサートの企画、演出、ポスター制作、チケット販売のありとあらゆる作業がほとんどauroraによって粛々と辛抱強く進められました。4月に開催されたコンサートは満席のお客様の見守る中、厳しい練習の後がそこかしこに滲み出るようなすばとともにと演出が美しい衣装とともに次々と披露され、auroraの底力を見せ付けられたのでありました。

vol.4完成と、コンサート成功を終えた岸上さんにインターネットラジオでインタビューしました。こちらのURLよりお聴きください。http://www.tokiwaradiostep.com/maron.html


最後に、明石安哲氏の「まちうた」への思いが凝縮されたvol.4のメッセージを掲載して、全4集完成のご報告とご案内の締めくくりとさせていただきまです。


★「まちうた」はご当地ソングです。

                 まちうたプロジェクト実行委員会委員長 明石安哲

 私たちが自身の言葉で恋を語れなくなったのはいつのころからだろう。どこか遠い街の仕種や、どこか遠い国の言葉で恋をするのは現代日本の常識だ。もちろん私たち自身の歌も同時に見失った。

 それはいつのころからだっただろう。たぶん1960年代、戦後昭和の急成長時代、猛烈な中央一極集中の渦の中で全国の地方都市がみんな同じ顔つきに見え始めた頃のことだ。進歩的な若者たちの多くが欧米産ポピュラー音楽に熱狂し、演歌系を中心にちりばめられた多数のご当地ソングは歌い手を失った。ビートルズ来日公演のテレビ映像にかじりついた高校2年生の私もそれに加担した一人だった。

 若者の多くは、やがて意味不明のカタカナ英語を歌う気恥ずかしさに負けて日本語で書かれた初めてのロックやフォークソングに傾倒した。今思い出しても何とも生硬な、ギクシャクした楽曲の一群だったが、アイラブユーと歌うより、アイシテルと関東訛りの標準語で歌う方が気分はずいぶんと高揚した。しかしアイシテルややっぱり讃岐の恋の現実からは遠かった。それが再び気恥ずかしくなってきたのはずいぶん後のことだ。

 ポピュラー音楽の詩の世界では、もうすでにほとんどレッドデータブックの絶滅危惧種となってしまった方言の問題はさておき、せめて恋の舞台くらいは鎌倉の海岸や六本木ヒルズや新百合丘ではなく、大的場やサンポート高松やレインボー通りにできないものかと思い始めたのは10年ほど前のことだ。そんなころ、友人の上村良介が自作の詩に菅涼子の曲をつけて届けてきた。そこからこのプロジェクトは生まれた。

 「メモリー・オブ・Tシティー」はNPO法人アーツカウンシル高松のプロジェクト「まちうた」シリーズの第4集である。プロジェクトは平成19年張るに発表したオリジナルCD「スケッチ・オブ・Tシティー」を第1集として、第2集「ロック・オブ・Tシティー」、第3集「ジャズ・オブ・Tシティ」とジャンルを替えながら高松在住のミュージシャンを選んで毎年1枚のCDを発表してきた。そして4ヵ年計画最終年の今回はクラシック畑の中からオペラバンド的な活動を展開する高松の声楽グループ「アウローラ」をフィーチャーした。

 私たちの街や人々の記憶、思い出を、現代の人々が口ずさむことの出来る歌詞とメロディーに変換して歌にするという作業は思ったほど簡単ではなかった。今回、第一集から作詞を炭層してきた上村良介の詩をクラシカルな味付けで歌曲に仕上げるという作業には、作曲を担当する七條功をはじめ、岸上美穂、越智慎悟、村川和美、山本真梨子、川島晃代のアウローラの全メンバーが相当に本気で取り組んだ。つまり時々口角泡を飛ばす騒動も起きるほどだった。その成果がどれほどのものか、まずは聞いてみてほしい。

 ここには間違いなくこの街に住む私たち自身の新しい音楽世界がある。まだ不出来ではあるかもしれないが、間違いなくここには新しい音楽世界を生み出そうという情熱のほとばしりがある。その望みはやがてかならず成就することだろう。大切なのは決してあきらめないことだ。とはいえ眉上げて勢い込むほどのことではない。高松が好きだから高松を歌う。

 子どもたちが自然に親を愛するように、人々が自然に自分の故郷(まち)を愛することができる時代がくるように、故郷の新しい歌をここに集めた。   (まちうたvol.4ジャケットより引用)


Vol.1~vol.4までのまちうたCDについてのお問い合わせ先:
NPO法人 アーツカウンシル高松
TEL&FAX: 087-851-6005
E-mail: sinrincafe@yahoo.co.jp
vol.4は現在こちらのサイトで購入できます。http://echo.ymw.co.jp/products/detail.php?product_id=238

※関係者のメッセージは、引用先の記載のないものはすべてACT瓦版(アーツカウンシル高松編集)より転載しました。またすべての画像についてはACT瓦版編集委員会の全面的なご協力を戴きました。ここにお礼申し上げます。
  


Posted by マロンアルファー at 11:53Comments(0)告知モノ

2010年02月15日

ガーリック侍

金曜日には、ものすごく久しぶりに「旧・こんぴら夢戦略会議」の面々に再会。

マロンは名前だけ仲間入りさせてもらって、結局何の役にも立てなかったこんぴらの商品開発プロジェクトの反省会と打ち上げに参加させてもらったのでした。


思い起こせば、鼻息荒く初めての会議に出席させていただいたのが、もう一昨年の6月のこと。

バカモノ・ヨソモノの目線で、外から見たこんぴらの姿を述べてください、という依頼を受けて、好奇心満々で参加していたのですが、何度か出席させてもらうちに、

「外からみたこんぴらの姿」なんて十分わかった上で、評論家ではなく常にプレイヤーである若手の店主達は、常にリスクを背負いつつ、逃げることなく、前に向かって歩いていることを知ったのでありました。

毎回丁寧なご案内をいただきつつも、昨年春から豊島の店をオープンさせたこともあってなかなかこんぴらでの会議に顔を出せなくなってしまったのではありますが、昨年より力強い助っ人団の登場と、もともとのプレイヤーである彼らの努力が実って、こんぴらにんにくを使った商品開発で、第一弾と第二弾の試作品を作ることに成功したとのこと。マロンもお土産に頂戴しました。


一度、彼らとゆっくり飲んでみたいと思っていたので、お酒の匂いに釣られたこともありまして、反省会(飲み会)にだけ、ノコノコ参加させてもらったのでありました。

ひさしぶりに見る彼らの顔が、記憶しているよりもはるかに自信と希望に光ってみえたのは錯覚ではないような気がします。


2次会では、ハイボールが飲める焼き鳥やへ。

おとなしい方だなあと思っていた人達の絶妙のやりとり(小学1年からのつきあいの人が多い)に、笑いすぎて、しわが増えてしまった翌朝でした。


ああ、めちゃめちゃ楽しかったよ~~!!


※写真は、試作品のひとつ、「ガーリック侍」



「こんぴら夢戦略会議」から改まった、チームの名称は、HEART TO KONPIRA
HEART という文字の中に
ART  芸術
EAT  食
HEAT 温泉
という意味が込められているそうです。  


Posted by マロンアルファー at 15:38Comments(0)Kumbhira

2010年01月21日

引き揚げるんに往生するが

本日は、島サイクリングという番組収録のため、ちょっとよそいきなHITAKIでした。

お店では主にワインを出してはおりますが、マロンはソムリエの資格は持っておらず、コルクを抜くのが実は苦手です。ボトルの皮むきはもっと苦手。。。∴ソムリエさんは絶対に使わない「失敗しないオープナー」を使っての出演です。

レポーターさんは、国井律子さんという、バイクで旅をする麗しきエッセイスト。

豊島産の塩蔵オリーヴをアテに、シシェルの白をゴンゴン飲んでいただいて気持ちいい〜

オーストラリアから帰国されたばかりとのことですが、むこうでは毎日昼間から普通にワイン(まずはビールとかではなく)が出てきていたそうです。(オーストラリア、いかなくちゃ!)


途中から、稀少な常連さん(Dr.M)も加わって、綺麗な夕日の中、無事収録終了〜

「島サイクリング」とても素敵な番組みたいなので良いPRになりそうです。ありがとうございました。

ただ、ゆっくり飲みたくて来てくださったM先生には、BGMはかけられないわ、しゃべれないわでl窮屈で落ち着かない思いをさせてしまいました。すんません!

※写真は、本日大量に戴いた蛸壷&漁具

お店では、花入れ、オリーヴの鉢、伝票入れに

茶会では、水指と、蓋置に使えそうなお宝揃いですなあ


タイトルは角石語録 2

マロンが蛸壷をもらうために、港と船を繋ぐ戸板に足をかけようとしたところを静止された時の追加句。

角石さんに、テレビの取材があるので一緒に出てくださいとお願いするやいなや、「ワシ、黄門さまをみないかんので、いぬわ」と、すっと帰ってしまわれました。。。。。  


Posted by マロンアルファー at 17:45Comments(2)todo消化法

2010年01月18日

大人のラブストーリー「青き島よりGO!」

昨夕は、ペンペンからの情報をいただき、豊島から帰るや、まなちゃんを誘って映画を見てきました。

実は、1年くらい前にこの映画の脚本を、当時のにぎわい創出課長さんから送ってもらって読ませていただいていました。


映像になったらどんな感じになるのか、すごく興味を持っていましたので、最終日に間に合って幸運でした。(ペンペンありがとう!)


映画の舞台は、丸亀と丸亀沖に浮かぶ広島です。

映画に出てくる丸亀城も、丸亀高校も、広島行きの船着き場も、銀行も、駅前広場も、丸亀が故郷のマロンにとってはなじみのある場所ばかり。

これらを、ほんとにきれいなカメラワークで見せてくれて感激。


広島から丸亀高校に通う一人の女子高校生の目線で書かれてはいますが、これは完全なる「大人のラブストーリーだなあ」と思います。

BGMもジャズとしずかなサヌカイトの組み合わせが、ストーリーのせつなさを表現しているようでした。

自主制作映画で、俳優さんも女優さんもほとんどオーディションで選ばれたそうです。

「もうちょっと内容にピッタリのタイトルがなかったのかな」というのと、丸亀弁がよほど難しかったのか、ところどころに見られた「棒読みっぽさ」は否めませんが、それさえかえって初々しく感じてしまうような仕上がりでした。




「一生かけて君を守るために傍にいる でも指一本触れない」

10年も一緒に暮らしているのに、こんな誓いを頑なに守る男を愛してしまったら


女が勇気を振り絞るしかないんですね。。



「青き島よりGO!」みなさんも機会があれば是非ごらんになってください!


  


Posted by マロンアルファー at 13:38Comments(5)大事にするということ

2010年01月18日

お正月休み終了。

いろいろあってこんなに遅くなってしまいましたが、、

明日、豊島バー、開けます。



昨年末にストーブを島の人から新旧3台もらえたので、室内は暖かです。


家浦の門石さんと木村さんがわざわざ山から採ってきてくれた大量の萩の枝。
昨日の箒作り教室で残ったやつを全部、HITAKIにいただきました。

萩の箒を作ってみたい方は、ぜひお越しくださいね。
授業料と材料費は、無料です。
作った箒はお持ち帰りいただいても結構です。
 ※ワンドリンクオーダー制・キャパは、材料がなくなるまで

明日のメニュー***************
 タコのオリーブオイル炒め
 豊島米で作ったコッペパン
 豊島産野菜(明日は何が手に入るかな)のボイルドサラダ
 豊島イチゴのクレープ
 女神の山ぶどう
 と
 ワイン





こちらは、最近見つけた目からウロコなブログ
ムネオ日記
  

Posted by マロンアルファー at 11:23Comments(0)豊島アフタヌーンバー

2009年12月07日

SON香川Christmasparty 開催記

昨日は、スペシャルオリンピックス日本・香川(SON香川)のクリスマスパーティーでした。

マロンはSON香川の幽霊活動員ではありますが、毎年、クリスマスパーティーの段取りだけは、普段仲間に不義理をしている「つぐない」のごとく、日頃の不品行の「みそぎ」のごとく関わらせていただいています。

★歯アート美術館と金山サヌカイト★
今年の夏に、庵治の歯アート美術館を尋ねた時に、その佇まいとロケーションの素晴らしさに感激して、今年の暮れのSOのクリスマスはここでしたいなあ・・と妄想が始まりました。

おなじ頃、今年になってご縁ができた篤志家二ノ宮氏(香川デジタルファクトリー事務局長)から、金山で採れたサヌカイトの音色の驚異的な美しさを、知的発達障害のある方(SOではアスリートと呼びます)に是非聞いていただきたいので機会を作って欲しいというお話があり、同団体が運営されている「瀬戸内海サヌカイトコンサート」の秋〜冬のコンサートツアーのひとつにSOのクリスマスパーティーを入れていただくことになりました。

場所の選定に入った段階で、マロンがダメ元で夏の絶景を思い出して「歯アート美術館は?」と切り出すと、サヌカイトの発信に心血を注がれている同団体の竹内守善さんも偶然「歯アート美術館がいいけど遠いわなあ」と提案されていたことがわかり、即候補決定。まずはマロンが単身で会場使用の許可をいただくべく現地に口説きにいくことになりました。歯アート美術館の和田会長(大手義歯製造会社の会長さん)と竹内さんがお知り合いだったこともあって、美術館さんには全面協力をいただきながら、話はとんとん拍子に進んで、昨日を迎えました。


★驚異のねいろ★
県内在住の私達がよく耳にするサヌカイトの音色の多くは、自然石をそのまま音階にならべて音楽を奏でるスタイルが主流で、マロンの何度かお目にかかることがありましたが、今回初めて聞くことができた金山の石(というより、前田さんというサヌカイトの研究者兼パイオニアの開発した形=筒状にして中を刳貫いた=のサヌカイト)から流れる音色は、ここでマロンが10,000字の文字にしたところで全く伝わらない驚くべきものでした。これまで聞いていたサヌカイトも綺麗な音だったのですが、それとは、まったく違う楽器と呼んだ方がよいと思います。

コロンさんという女性お二人の奏者が最初の一音を産み出した途端に、悲しくもなく、意識レベルではまだ何にも感動していないのに、自然に瞼が潤んで涙が出てきました。ついで「あ、鼻つまっとったんや」と気付く、すなわち鼻がすうすう通り出します。そして、まだ癒えていなかった、先日の「通りすがりに近い人からの言葉の毒」でできた潰瘍が、まさに「強力な破砕機」にかかったように、ゆっくりとゆっくりと砕かれて消えていく心地がしました。金山のサヌカイトには、癒す力と同時に、毒や汚れを消す強力な浄化機能があることを肌で感じました。

正直いって、これまで、「世界に誇るさぬきの宝の一つだ」と何度聞かされてもサヌカイトにはもう一つ興味がわかなかったのですが、今回のこのご縁でサヌカイトの演奏を聞いたことにより、マロンも一人の熱烈な金山サヌカイトファンになりました。いつかツトムヤマシタの生の音色を聞く機会に恵まれたらいいな、、とまた妄想が始まりました。

★ファミリー&毎年のプレゼント★
毎年、クリスマスパーティーの最後に、SON香川のファミリー委員会(アスリートのお父さんやお母さんで構成されている)が、我々ボランティアに心をこめたプレゼントをくださいます。クリスマスっぽくおしゃれに包装された、作業所や施設で作られた美味しいクッキーや、今年は自閉症の人たちが、おなじ仕事を飽きずにおなじ作業品質を保つことができる特長を利用して作られた手作業のイリコとふりかけのセットでした。

アスリートから直接、会場でセレモニーのようにプレゼントを戴くと嬉しいです。で、毎年ぱくぱく食べてしまうのですが、もう片方の本音は、我々はSOで細くではありますが長年繋がっているすでに「仲間」なので、一方的にお礼をされるのはなんというか、水臭い気もします。他のプログラムに参加できていないので偉そうなことはいえませんが、当たり前のつきあいと思ってほしいなと思います。きっと他のボランティアさんもおなじ気持ちだと思います。
1年に一度顔を合わせるだけになってしまいましたが、毎年準備を含めてアスリートのママ達と一緒に活動できることをとても有意義に大切な時間だと思っています。現場ではいつもテンパっているので愛想もなにもないのですがそう思っています。。

★学さんのスイーツ★
今年は、「御意」オーナーの細川学さんが、みんなのために、渾身のスイーツを作ってくれました。
クレープの皮に、カステラとイチゴジャムと生イチゴがいっぱい包まれている美味しい逸品でした。
学さんは、大日本社員食堂も経営していて、障害のある人たちとない人たちと一緒に仕事ができる環境も作っているノーマライゼーションとインクルージョンを等身大で実践しようとしている人です。障害のある人がない人の職場環境に入ることにより、いままでに全くみられなかった「その人がもともと持っている優しさ」のようなものが「障害のない人」から引き出されることを目の当たりにしているそうです。また、障害がある人の多くの「決して手を抜かない」「いわれた時間より1時間早く来て予習する」「帰るときは復習して帰る」といった仕事への姿勢については、真剣にお手本にすべきことが多いことも知ったそうです。

「SONのクリスマスパーティーにスイーツを作って欲しい」という申し出にOKしてくれた学さんは、「自分ひとりじゃなくて、見えないところでも一人でも多くの人に関わってもらおう」と考えてくれたようで、クレープの皮は三豚さん、イチゴは三木町の農園さん、カステラはまた別の職人さん、イチゴジャムは違うファクトリー、、そして包むのは食堂でみんなで!といった具合で多くの人に関わってもらったそうです。
この心根に、頭が下がりました。
そして配達は、庵治半島の根元まで、今度は学さんの奥さんが一人で持ってきてくれました。
学さんはスイーツの時間に間に合うように駆けつけてくれて、暖かなメッセージをくれました。
ありがとうございました。
※会場で配られた残りのスイーツは今回partyに来られなかったウィンドヒル(知的障害者更生施設)の入所者のみなさんのお土産にさせてもらいました。

★弾き語りスト ゆうゆ&ピアニスト植松亜美さん★
今回は、サヌカイトだけではなくて、学さんのお友達の地元ミュージシャン「ゆうゆさん」が、ギターを持って駆けつけてくれました。ゆうゆさんは、大阪や高松でストリートミュージシャンも経験している地に足のついたアーティストです。今回、竹内守善さんのご紹介で飛び入り参加してくださって、本邦初公開の幻の曲「ポルカ」と「クリスマスソング」をピアノを奏でてくださった植松亜美さん(植松おさみさんのお嬢さん)とは、以前別の所で、なんと「ちんどん屋」を一緒にした仲だったことが判明してびっくりしました。
繋がってます。
ゆうゆさんの歌声は、優しくて美しくて、とても透明でした。

★金山の前田さん★
前田仁さんというとてつもない有名人(故人)をお父様にもつ前田宗一さんは、サラブレッドな雰囲気の漂うめちゃ素敵な人です。これまでは英国のエリザベス女王の前で演奏する、、などの機会にしか公開されなかった極上の楽器「サヌカイト(音色を研究しつくされた形に刳貫いている)」を庵治まで持ってきてくださったばかりか、歯アート美術館のパイプ椅子の数が足りないかもしれないことがわかった時点で、わざわざ坂出から大量のパイプ椅子を運んでくださいました。また、当日、マイクがない(お互いに相手が用意してくれると思っていた(恥))ことが判明するや、当日、マイクとPAまで間に合わせてくれた超人な方です。同時に、これまでるいままに頼りっぱなしだったクリスマスパーティーでは、そういえばPAのことを一切心配しなくてよかった=すべて彼女達が用意してくれていたからだと、思い知らされたのでした。何事も無くスムースに事が運ぶ為には実はその陰でどれだけの人の努力があったのかを今さら知るのでした。

★プレゼント交換★
茶飲み&酒飲み友だちのペンペン氏(豊島バーの事実上の大家さんでもある)に、Christmaspartyのお誘いをしたところ、そういえば週末なので実家に帰っている日だとわかりました。来られない代わりにと、これまで頑張って集めてこられたレアもののぬいぐるみを提供してくださり、当日、交換用のプレゼントを用意できなかった人に一旦お渡しして、プレゼント交換に加わってもらいました。
SONの事務局長のH女史の息子さんの手元に渡ったデジパンダを見て、女史いわく「これ、ペンペンさん?」。なぜかばれているのでした。


てことで、今年のSOのChristmasも無事終了しました。

これまで関わってくださった方、今回関わってくださった方、これから関わってくださる方、みなさんありがとうございます!








  


Posted by マロンアルファー at 09:00Comments(2)音楽

2009年11月27日

家庭画報な午後

昨日の豊島アフタヌーンバーは、家庭画報から抜け出したような美しいお肌のマダム5人をお迎えしての開店となりました。

鹿庭さんの企画するライブで偶然隣り合わせになったことが2回や3回じゃない上に、某文化財団での行事ごとでもどこかでリンクしていて、その上、マロンの友人の中でもっとも酒飲みな女史@坂出と中学の同級生だったことも判明していて、さらにベリーダンスのお教室でも・・というこれでご縁がなくて誰とご縁があるというのだと思えるような方からのご予約でした。

5人のうち主賓が2名さま。お一人はお嬢さんの結婚をお祝いして、もうお一人は会社の周年祈念をお祝いして、というおめでたい席でした。

マロンが行った準備は、テーブルクロスを寒色系から暖色系に変えたこと、さざんかの紅白のお花があったので山から戴いてきてテーブルフラワーとしたこと、どうしてもタコが必要だったので唐櫃漁協にお願いして分けてもらったこと、家浦漁協の名人からカレイをいただいたこと、砂川さんからカブラを戴いたこと、イチゴヤで生イチゴ入りクレープを配達してもらったこと、テシマノメガミからフグの唐揚げと、なんと山葡萄ワインのもとをいただいたこと、テシマノメガミにカレイを三枚に降ろしてもらったこと。

レポート執筆中のシブ大ツアー(11.21-23)の時もそうですが、豊島の多くの人に世話になりっぱなしの昨今でございます。

5人のマダムは「いったいどこで何を使ってお手入れしているのですか?」と問い詰めたくなるほどつるっつるな方ばかり

HITAKIはピカピカとても素敵な空気に包まれました。

午後4時を過ぎた頃、、玄関先に一人の紳士が入ってこられて「あしたさぬきのブログを見て来ました。一杯だけワインが飲みたいのですが。。」とおっしゃいます。めちゃ嬉しいし・・

せっかくなので華やかなマダム部屋の手前の東南アジアな団らん部屋にお通ししたかったのですが、紳士は、遠慮なさって、戎神社前の離れの椅子におかけになりました。今週から4週間4時に終わる仕事で豊島に通われる由、「こんな妖しいお店は大好きなんです」とお気に召していただいたようで何よりです。

みなさんご来店ありがとうございました!

  

Posted by マロンアルファー at 17:04Comments(2)豊島アフタヌーンバー

2009年11月05日

冬じたく

火曜日の豊島バーはベリーダンスのWakaさんをはじめとする美女軍団にお越しいただいて、非常に華やいだ雰囲気の一日でした(。・_・。)ノ

祝日のため、いつもの午後一時便がないので、ご一行は午前中到着到着便にて上陸。ガイドツアーを試行されている「山羊と花畑舎」の提供する「氷期の終わりと極相林ツアー」に参加いただき、ランチは家浦パスタ「ICHIGOYA」で、シェフが腕によりをかけたパスタを召し上がった後は、五時二十分の船に乗るまで、華やかなまま、まったりワインをお楽しみいただけたように思います!

山羊と花畑舎ツアーで訪ねる随所でWakaさんは「ここでベリーが踊りたい」とイメージされたようで、遠くない将来、豊島にベリーダンスが上陸するかもしれません♪

まずは、マンスリーライブでやってほしいな(*^_^*)


二日あけて本日は予約がないのんびりディ… ノーバディ聞きながらアルゼンチンのワイン飲んでます〜

十一月の豊島ライブは29日(日)午後から!
  

Posted by マロンアルファー at 14:32Comments(7)

2009年10月24日

メガミノメグミ

豊島家浦で長年美容院をされていた森本さん

現在は、毎夕、島中をバイクで走って、旦那様が船で捕ってきた魚を無料で配っています。

「40年もの間、島中のみなさんに店にきてもらってお陰様で商売をさせてもらえた。そのお客さんたちは今はみんな年をとってしまって一人住まいが多いので、長年のご恩返しに、かつてのお客さんのところへ魚を配って廻っている」といつか話してくれた方です。

ご自身も時々釣りをされたり、檀山の麓に畑を開いてさまざまな野菜を作っています。

今日は希少な山葡萄のワインを持ってきてくださいました。

「女神の山」檀山の恵みがいっぱい詰まっていて、万病に効くんだそうです。住民運動の真っ最中に県外の40代の癌を煩っている男性に「どうしてそんなにお元気なのですか?」と聞かれてこのワインを差し上げたら、その後お手紙が来て「癌が消滅しました」と歓びの連絡があって今も年賀状が届くんだそうです。


いただいた山葡萄ワインは、実家の母にもって帰りました。
  


Posted by マロンアルファー at 07:54Comments(5)豊島

2009年10月19日

ベリーダンス&カクテル 10月25日(日)よる@全日空ホテル

お尻に火が点かないと告知すらさっさとできない自分に厭きれつつのご案内です。

マロンが憧れている女性に、ベリーダンスのwaka先生という方がおられます。

マロンはこの先生が講師をされているベリーダンス教室に、休み休みではありますが通っておりまして、そこで、wakaさんのみならず、レッスン仲間のとても素敵な女性たちを知ることができました。

最初のレッスンはこんなドキドキな出来事から始まりました。

wakaさんのレッスンのときのコスチュームもすごく綺麗なのですが、いつか、本番用の衣装を着けて舞台で踊る姿をみたいなあ、、、と思っていたら、好機が訪れました。

今月25日にマロンも実行委員を務めさせてもらっている企画に、なんとwaka先生にご出演いただくことができることになったのです。




この出演のお願いメールを通じて、判明したことがいくつかあるのですが、その一つが、waka先生もマロンも「女神の復権」を願っている、そのためにできることはする。。ということでした。そうすれば全てが解決する、と信じているのです。

ということで、この企画を名づけて
Fes Diosa Cocktail Garden (女神のカクテルの庭)

高松市内の一流処のバーが18店舗も軒を連ねて、魅力的なカクテルを作ります。

詳細は下記のとおりです。
チケットは、アルテスポーザ(丸亀町のブライダルサロン)と参加バー各店舗でもお求めになりますが、マロンの方にご用命いただいてもお取り置き等いたしますのでよろしくです~~♪




フェス・ディオッサ・カクテル・ガーデン
 ~讃岐の女神たちを称えて~

★日 時:2009年10月25日(日) 18時~20時
★場 所:全日空ホテルクレメント高松 飛天の間
★ドレスコード:ご自分なりのお洒落をしてお越しください。
★内 容:
 ☆ショー     ベリーダンス erico&waka、
          フラメンコ
          ウェディングドレスファッションショー
          フレア

 ☆ウェルカムドリンク ジェイコブス(オーストラリア)※赤のスパークリング(シラーズ)
               エスプモーソ(スペイン) ラノビア
 ☆フリーカクテル
 Nonアルコール(8種類)、ジンベース(6種類)、ウォッカ・ベース(8種類)、テキーラ・ベース(5種類)、ラム・ベース(5種類)、ブランデーベース(7種類)、リキュールベース(13種類)を、バーテンダーが腕によりをかけてつくります。
 加えて、この日のためのオリジナルカクテル(ディオッサ)がノンアルコールとアルコールの2種類作られます。
 さらに、ファッションショーで披露される10種類のウェディングドレスにあわせて10軒のお店がウェディング創作カクテルを創ります。

 ☆フリーフード
  全日空ホテルクレメント高松の誇るシェフ陣の渾身のお料理がビュッフェスタイルで並びます。

 



以下、事業趣旨です。

2008年夏以降、アメリカの金融破たんによる世界的不況により、現在日本経済も景気低迷期に入ったといわれています。地方都市もその影響をおおいに被っており、街全体が不景気という雰囲気に満たされつつあります。
そこで、高松市内で活躍中のプロのバーテンダーが集まり、街全体に元気を取り戻し、高松のまちを盛り上げようとするイベントを企画します。

讃岐の女神(ディオッサ:スペイン語で女神):豊玉姫、玉依姫、ヤマトトトヒモモソヒメを称え、秋の夜にカクテルの華が咲くようなプログラムをお贈りします。


★主催:フェスディオッサカクテルガーデン実行委員会(委員長:白川真美江)
★協賛:日本酒類販売(株)、ベルノ・リカール・ジャパン(株)
★ブース出店協賛:日本酒類販売(株)、(株)久本酒店
★チケット:8,000円
★参加バー:
論処
Bar Bisous!
BAR Donde
ぐうたらバー MAIDO
BAR Snow
ラ・トラッターレ
Bar Be-too
Bar Y's
BAR ALWAYS
premier(1er)
bar sining Lanterna
cocktail Bar Dank
Club & Delica
Bar BALLe
Hide Away
EARLY'S BAR
402 Bar
足袋
animal house




※現在残席数30前後(定員300席)
  


Posted by マロンアルファー at 17:49Comments(10)告知モノ

2009年10月16日

藍川由美「和琴コンサート~催馬楽『伊勢の海』を歌う」

 東山魁夷せとうち美術館で、宇多津町出身のソプラノ歌手藍川由美さんの「和琴コンサート~催馬楽『伊勢の海』を歌う」を開催します。普段あまり目にすることのない日本最古の絃楽器「和琴」を自ら弾き語り、古代日本の音楽世界を紹介します。

秋の特別展「日本画のモダニズムと現代/自然、感性、躍動」をご鑑賞いただいた後、和琴が奏でる心地よい響きと歌声をお楽しみください。

               記

【テーマ】   藍川由美「和琴コンサート~催馬楽『伊勢の海』を歌う」


【主  催】  NPO法人アーツカウンシル高松
        香川県立東山魁夷せとうち美術館
          
【日  時】   平成21年10月22日(木)       午後5時30分~午後6時30分

【場 所】   香川県立東山魁夷せとうち美術館ラウンジ       
        (椅子席は70席程度用意しております。)

【演 奏 者】   ソプラノ歌手 藍川由美
 略歴 坂出高等学校音楽科を経て東京芸大に学び、山田耕筰歌曲の研究で同大博士号を取得。活発な音楽研究、著述活動の傍ら、日本の伝統に根ざした歌曲を積極的に歌ってリサイタルを開き、文化庁芸術祭賞などを受賞。「日本の歌のカタログ作り」を目指したCD収録は、現在700曲を超えている。

【曲  目】   催馬楽『伊勢の海』、『越天楽今様』、『黒田節』、『君が代』、『螢の光』、『北国の春』などを予定。
        
【入館料】   コンサートは無料。美術展覧会には観覧料(一般600円)が必要です。


香川県立東山魁夷せとうち美術館 0877-44-1333
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藍川由美さんの歌声と和琴の聴ける貴重な機会です。皆様お誘い合わせのうえ是非お越し下さい。お待ちしています。

 アーツカウンシル高松
 高松市丸亀町7-10-3階 087-851-6005
 wesayact@ybb.ne.jp 担当明石(090-8979-5346)



****************
「和琴(わごん)」は日本に古代から伝わる琴で、宮内庁楽部では現在、全長2メートルほどのものを使っています。ふだん私たちがよく目にする「お琴」は中国から渡来した「楽箏」を改良したもので、「俗箏」と呼ばれています。日本古来の神楽では箏は使わず、本来は和琴しか使いません。源氏物語の「明石(あかしい)」の巻では、箏を弾きながら『伊勢の海(いせのうみ)』を歌う源氏の君の姿が記されています。今回は外国へ携帯するために特別仕様で製作された約1・4メートルの和琴を使って、藍川由美さん自身が弾き語り、「伊勢の海」などを歌います。会場は瀬戸大橋と砂浜と緑の壮麗な風景が評判の美術館ホールです。楽
器、演奏曲目に演奏会場も貴重なら、歌い手も日本歌曲の第1人者というまたとない組み合わせです。ご期待ください。
 なおこの企画は同美術館の夕焼けコンサートの枠組みの中で取り上げるもので、同時開催中の展覧会「日本画のモダニズムと現代」展と併催する形で入場無料となっています。当日はイス席70人ほかは立ち見になります。ご希望の方はお早めに会場にお越し下さい。

  藍川由美さんのホームページは http://www.jade.dti.ne.jp/~onodera/
  


Posted by マロンアルファー at 11:39Comments(1)告知モノ

2009年10月10日

臨時・加藤サロン良い会でした

今日の午後に加藤秀樹さんの時間をもらえるかもしれないことが、昨夕四国村で急浮上しまして

加藤さんが政府の要職に就いてしまわれた以上、この先、こんな好機はしばらく訪れない予感もしたため、昨夜よりサロン開催に向けて自分なりに最善の努力をした結果

加藤さんには、朝から、本来東京で予定されていたお仕事を一件電話で済ませ、飛行機を変更していただいて、

参加いただいた方には、午後の予定をキャンセルしたり、一時間前のご案内になってしまったためにバタバタと準備をさせてしまったりしつつも

臨時・加藤サロンを、無事オープンすることができました。

参加者は九名。
新聞記者
論説委員
事業仕分け対象事業担当者
公認会計士
メディアオーナー
元県議
現職国会議員
など多彩なお顔ぶれでした。

話したテーマは次のとおり
★事業仕分けに対する取り組み方の自治体による違い
★その事業が必要かどうか、当事者の視点に立つ当事者とはいったい誰のことか
★キャッシュをあまり必要としない豊かな暮らしについて
★政治家が官僚に本来の仕事をしてもらうための必要条件とは
★瀬戸内国際芸術祭、二回目以降があるならば
★島の両墓制などの独特の文化に光をあてると
★構想日本「事業仕分け人」のこと
などなど

屋島が一望できる河畔の木製テラスで、カレントスタイル大岡氏の心尽くしのイタリアンと、ホッツキ漕ぎ人植村さんの心のこもったサービスに癒されながら、ナマ加藤さんのお人柄と、あまりにも自然体で真面目でまともな取り組みが、結果として全国に類似団体さえない希有なシンクタンク「構想日本」を育てて、実績を積み上げてこられたことに対する畏敬にちかい敬意を感じることができた、非常に有意義なランチタイムとなりました!

ことがわかっている方の話は、どんなテーマであろうが、非常にわかりやすいものなのだと、改めて認識できた次第であります。
ほんとに楽しかった…

ありがとうございました
  

Posted by マロンアルファー at 22:25Comments(2)

2009年10月08日

飲茶を探して三千里

本日、オープンして以来初めて、豊島のお店を休みました。

台風情報がなければ、今頃は、漫遊帖を通じて「心のエステツアー」に参加下さった方々とともに、HITAKIで振り返りミーティングをしてる頃でした。

お天気を怨んでも仕方ないので、午後三時に飲茶がしたくなって、この時間にショウロンポウとジャスミン茶をご馳走になれるお店を探したけど皆無。。


香港とか上海にあるような飲茶屋台みたいなとこがあったらなあ…
あと紹興酒バーとか

ねえ(*^_^*)

結局…南新町にオアシスのように営業中だった大日本社員食堂で浜ラーメンと麦茶いただいてます( ・_・。)ノ  

Posted by マロンアルファー at 16:33Comments(2)ごっつぉう

2009年10月01日

砂川さんのピーマンget !

本日早速にマドンナ倶楽部のご予約をいただいて仕込み中


砂川さんのター菜とピーマンが手には入ったので、タコ料理に使いましょうか(。・_・。)ノ

で、腹ごしらえに家浦パスタ店に来ていますよ♪
  

Posted by マロンアルファー at 10:56Comments(2)

2009年09月30日

構想日本の事業仕分 ついに高松市でやるそうですよ!

わが心のボス、加藤秀樹さん(四国村理事長)率いる「構想日本」は、日本で唯一の政策を作ることのできる完全独立のシンクタンクです。

構想日本での実質的活躍が認められ、先ごろ行政刷新会議事務局長に起用されました。

これまで国、県、市に関わらず、行政のこの仕事は本来こちらへ、これは民間へ、これは統合し、これはいらない、といった感じでどんどんと「仕分け」ていく地道な作業からしか、今の日本がかかっている病気を根治することはできない。といったスローガンでこれまでいくつもの自治体の仕組みや仕事に「完全公開の場で」メスを入れて、膿を出し、「歳出減」を現実的に生み出す結果を出してこられました。




加藤さんのおひざ元である、香川県や高松市は、かえってやりにくいはずなので、ほとんどの自治体の事業仕分が終わりそうなころにようやく腰を上げるんだろうなあ。。。とかってに想像しておりました。


が。。

先刻、敬愛するC女史より「高松市役所で事業仕訳決定」の情報をいただいて、確認したところでございます。

詳細はこちら
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/12326.html


事業仕分の詳細はこちらです
http://www.kosonippon.org/shiwake/

マロンも万障繰り合わせていきますので、みなさんもご一緒に~



この際だから、香川県もしてほしいですね♪  


Posted by マロンアルファー at 13:29Comments(2)世界へ発信したい人DB

2009年09月14日

JR四国マドンナ倶楽部×bar de HITAKI

もったいないことに、JR四国が半期ごとに企画されている「マドンナ倶楽部2009秋号」にbar de HITAKI(豊島アフタヌーンバー)が仲間入りさせてもらえることになりました。

マドンナ倶楽部は子育てが一段落した世代の女性に半日や一日を中心とした小旅行を提案して、ちょっとだけ非日常な「時間」を提供するJR四国の独自企画です。

掲載されている県内の他の施設は、二蝶さんや琴平花壇さんなどの老舗の一流施設ばかり。。。お話をいただいたときは、ちょっとプレッシャー(かなりプレッシャー)を感じて怯んでおりましたが、「bar de HITAKIが提供できるものはゆったりした島時間しかない」と開き直って、お引受けすることにしました。


秋号で発信していただくプランは

全日空ホテルクレメント高松の最上階にて、パスタランチを召し上がり、
そこから見える県営桟橋を見下ろし
「あの桟橋から一時に船に乗るのね」とご確認いただく。

さらに、目の前の女木島から数えて三つめの豊島を眺めて
「そして、あの島にこれから行くのね」
と思いを馳せていただき、

デザート&珈琲まで終わった後、
ホテル→シンボルタワー→桟橋までの地続きのコリドーを進み桟橋に到着

豊島行き高速船「まりんあすか」に乗船、家浦湊に到着し、
午後のワインと海の幸、最後はお茶を楽しんでいただく。。というものです。

今回、3時間半ただワインを飲みながらゆっくりするのでは勿体ないわ、という欲張りな方のために、オプションでガイドツアー「檀山の頂上から瀬戸内海を眺めながら、『氷期の終わりや極相林について』の大学院の講義のようなマニアックな話を聞く(by 山羊と花畑舎)」もご紹介いたしました。


近々、bar de HITAKI専用のブログ(ビジネスバージョン)をあしたさぬきで立ち上げたいと思っておりますが、せっかく綺麗なパンフレットができあがったので、マロンの冒険でひとまずご紹介させていただきます~

 ttp://www.jr-eki.com/warp/pdf/madonna09-10.pdf
 (お手数ですが、上記のURLの頭にアルファベットで小文字のhを加えてご覧ください<(_"_)>)



この場をお借りいたしまして、とんでもない冒険(ほとんどマロンと心中)に足を突っ込んでくださっているJR四国の松田社長と、「本当にこのお店で大丈夫なのかしら?」という心の声を押し殺しながら、素晴らしい処理能力で冷静に企画を整えたり有用なアドバイスをくださり続けているJRの琴陵さん、そしてどこの馬の骨ともわからないマロンと快くコラボしてくださることになったホテルクレメントの佐野社長に、心より感謝申し上げる次第であります。


そういうわけで、現在、予約のないときは、ひたすら、草ぬきと、庭掃除と店内のレイアウトの見直し、などに精進しておる島日常を送っております。


  


Posted by マロンアルファー at 14:19Comments(4)豊島アフタヌーンバー

2009年08月31日

祝・交代



昨夜は鳴門のちょっと非日常な場所で10年物の紹興酒と極上中華をよばれておりまして、至福のディナータイムの後はビバリーヒルズなリビングで、真夜中まで開票速報を見ておりました。

ついに政権交代が現実のものとなりましたね!
いったい何からどんな風に変わっていくのか、ドキドキしてます!!

今月4月に、香川2区で当選したたまき雄一郎さんに「マロンの潮風radio」に出ていただいて、そのドキドキするような政権交代後のプランを具体的に色鮮やかに語っていただいておりますので、当選記念に今一度アップいたします。
http://www.tokiwaradiostep.com/m_090312.mp3

打ち合わせが不十分で、収録を始めるやいなやたまきさんが何故かすっとお手洗いに立ってしまったため、オープニングの曲がやたら長いことをご海容ください<(_"_)>



そうそう同じく一区で当選した小川じゅんやさんと、比例当選した平井さんとのラジオ討論会(昨年秋収録)も、せっかくなので今一度ご紹介します。一触即発な内容や、極楽な話がちりばめられた充実した放送になっております。

http://www.tokiwaradiostep.com/p_081015_1.MP3

http://www.tokiwaradiostep.com/p_081015_2.MP3
  


Posted by マロンアルファー at 16:23Comments(2)tokiwa radio step

2009年08月18日

しあわせな夜。

昨夕は、ひさしぶり敬愛するM氏とともに、旦那寺のおじゅっさんからご案内をいただいてたロック&フラメンコ&サルサライブへ出かけてました!

場所は、なんと自宅と義理両親の家のある同じ町内に出来たライブハウス「雷神」(汗) 

ライブは紅さんバンド、亀ちゃんバント、そしておじゅっさん率いるサルサバンドというプログラム構成でしたが、会場にはおそらく、フラメンコ系とサルサ系のダンスを勉強されているまたは習得されたと思われる方々が大多数を占める客分布となっていまして、男女の比率は1.5:8.5くらいの女人天国でしたよ。

マロン的には、おじゅっさんのライブには行ったことがないので興味津々。初めて聞く生サルサは、ゆる〜〜くて、ラテーンなヱエ感じの音楽で、自然にカラダがスイングしてきて気持ちいいいい〜〜〜♪

途中でおじゅっさんがマロンのところにやってきて、「僕は遊び人でないんで!真面目なんで。 ほんで寺の名前をタグに入れるのはやめてくれ〜」と。。ブログを読んでくださったのですね♪

。。確かに、永代供養してくれるお寺を検索しているときに「マロンの冒険」がひっかかるのはお寺にとってはちょっと痛いかもw

ライブが終わってからは、ラフハウスでマダムロゼデート。音楽とお話に夢中になってるうちにあっという間に時間は経ち、帰りにがけに南新町を自転車で通っていたら、まだ開いてた「大日本社員食堂」でみぞれちゃんと遭遇(!)、そこで豚の天ぷら(ほっぺおちます)とワインとトマトのソフトクリームバジルシードかけを戴いて、ひさびさに学ちゃん(大将)といろいろ(豊島のこと、お店のこと、食材や調味料や仕込みのことなどなど)話すことができました。ごちそうさま!!



みなさん、大日本社員食堂にいらっしゃったら、日替わりの野菜ソフトクリームをかならずお試しくださいね! 後悔させませんから!!

  


Posted by マロンアルファー at 21:25Comments(2)音楽